# フェミニズム

女子学生が抱いた“ある嫌悪感”から考える「女子のフェミ嫌い」問題

フェミニズムをめぐる2つの論点
森山 至貴 プロフィール

彼女たちは「フェミ嫌い」なのか?

一つ目の論点について書く前に、ここで私は学生の名誉のために大切なことを言っておかなければならない。彼女たちは、いわゆる「フェミ嫌い」女性とは違うようなのだ。

女性だからといって誰もがフェミニズムに親和的なわけではない。そこにはさまざまな理由がある。男の持っている力に頼って(いるふりをしながらその力を「利用して」)自身の幸福を獲得する方が楽だし見込みがあると考える女性は、「男も女も平等な個人として能力を発揮できる社会を目指す」といった考え方は確かに嫌がるだろう。

あるいは、「フェミニスト」は怖いというイメージを強く持っている女性は、自身が「怖い」と思われたくないがゆえに、フェミニズムから自身を遠ざけるアピールをするかもしれない。だからこそ、多くのフェミニストたちは「フェミニストは怖い」というイメージを覆そうとする発信を強くおこなってきた。

もっとも新しい、上質なエッセイの書き手による一例として、ロクサーヌ・ゲイの『バッド・フェミニスト』(2014年、邦訳は2017年で日本でもベストセラーとなった)を挙げることができるだろう。

〈フェミニストと呼ばれたとき、私の耳に聞こえていたのは、「おまえは怒りっぽい、セックス嫌いの、男嫌いの、被害者意識でいっぱいの気取り屋」だという声。このカリカチュアは、フェミニズムを最も怖れている人たち、つまりフェミニズムが勝利したときに失うものが最も大きな人たちによって、いかにフェミニスト像が歪められてきたかを示しています。自分がいかにフェミニズムを否定していたかを思い出すたび、自分のバカさ加減が恥ずかしくなってしまいます〉(ロクサーヌ・ゲイ『バッド・フェミニスト』亜紀書房、p.11)

 

このように、個人の利害と社会の刷り込みによって「フェミ嫌い」は形成されるのだが、だからといって先の二人の女子学生を「フェミ嫌い」と認定してしまうのは正しくない。なぜなら、二人は口を揃えて「フェミニズムそのものは大事だと思っている」と授業中に説明してくれたからだ。

二人の女子学生は(少なくとも単純な意味で)「フェミ嫌い」なわけではない。二人の説明によれば、嫌悪感を抱いた理由は、主観的な感情が客観的な学問としてのフェミニズムに「混入」していることが許せなかったかららしい。

女性の感情は排除されてきた

ここまでわかって、私はやっと学生に解説すべきポイントを見つけた。その嫌悪感もまた、まさにフェミニズムが戦ってきた相手だからだ。そう、ここに第一の論点がある。

これまで、女性の主観的な感情、それを抱かせるに至った経験は、取るに足らないものとして男性中心主義的な社会から排除されてきた(し、今でもそうだ)。

他人の感情は、それを理解したり考慮したりするのを拒む側の人間にとって否定するのがとてもたやすい。「さっき食べたケーキがおいしかったから幸せ」という他愛もない感情の経験すら、それを認めたくない側に納得させるのはとても難しい。「ケーキが嫌いな人もいる」「美味は単なる快楽で真の幸福ではない」…難癖ならいくらでもつけられる。

ましてや「女性として生きていくことのつらさ」など、もっとひどい難癖にさらされるだろう。