「産むことを自分で決める権利」とは

産みたかったけれど妊娠のタイミングを失った人たちは、不妊手術を強制された人たちのように体を傷つけられたわけではないが、 命のバトンを次世代に渡せる「時間」を失って不妊になった。結果的に子どもを持ちたくてももてない身体になったということにおいては、 同じだ。 

もともと日本女性は産むことについて控えめで、妊娠について迷う時、周囲への「迷惑」ということを重く考えたり、「私は、お母さんになる資格がないのでは」と言ったりする。若い人に経済力がないためか、妊娠の決心でも、出生診断でも、祖父母の権限は大きい。また「まだ子どもはできないのか」と言うなど、人の妊娠に他人が口を出す場面も多い。

そうした風土に加え、戦後の後始末の遅れが、日本のリブロダクティブヘルスに影を落としている。たとえば高齢出産の増加が止まらない問題については、知識がなくてはリブロダクティブヘルスは実現しないのだから、学校教育は正々堂々と「産むために必要な知識」は教えていくべきだ。

しかし、この国では「若いうちに産まないと産めなくなる可能性が高い」と学校が教えようとすれば「富国強兵時代の再来だ」とマスコミや市民運動にたたかれる。国民には、まだ「けじめ」がつけられていない富国強兵時代の生殖政策が、いつ何時ゾンビになって出産の強制を迫ってくるかわからないという不安があるのではないか。

富国強兵政策とは国民の「数」と「質」を、本人の決断ではなく、国の都合で管理することだったが、「質」の面については、これから非常に重要な課題となってくる出生前診断の問題がある。このルール作りも国は自ら手をつけることは避けており、日本では学会におまかせになっている。抗議の矛先が、国会議事堂や厚生労働省に向かないようになっているのだ。確かに、過去から逃げているうちは、国はこの問題に取り組めないだろう。

密室で決められる出生前診断のルール

現在、出生前新診断は、高い精度で胎児のダウン症の有無などを調べられる新型出生前診断が一般診療化に向けて動くという重大な局面にある。しかし、そのルールが話し合われている場は日本産科婦人科学会の倫理委員会だ。厚生省が組織する委員会とは違って取材記者の傍聴もできず、委員の名も公表されていないというクローズドな体制で話し合いはすすめられている。

一学術団体ののガイドラインでは、効力に限界があることも問題だ。結果的に、今の新型出生前診断は無認可検査施設が普及するという状況を招き、コントロール体制は事実上崩壊している。

海外では国の議会で話し合われ、法律ができている問題なのに、日本では、産婦人科医たちが矢面に立つしかない。国は、謝罪すべきことを謝罪せず、慰めるべき方たちを慰めていないために、これから産む人たちのためにすべきことができていないのではないか。技術の進歩は待ったなしなのに、過去に縛られて、未来を作ることができないのだ。

幸いにして、出産を個人の営みとしてとらえる見方は、若い人たちに広がっているように思う。私が不妊や出生前診断の本を書くようになったのは10年くらい前だが、この間に、日本社会は家族の多様性についてかなり柔軟性を身に着けてきた。

今こそ、国は過去をきれいに清算する必要がある。そして国民一人一人が自由に産むこと、産まないこと、いつ、どのように産んでいくかを決め、それぞれの幸せを選択できるように、現代に必要な生殖政策をとっていくべきだろう。