いまだに盛んな「パワースポット・ブーム」にひとこと物申す

信心の形を反省すべき時期が来た
畑中 章宏 プロフィール

仏像には“パワー”はない

また、明確な「形」がないこと、なんとなく神秘的であることが、パワースポットの要件であるように見受けられる。

たとえば「奈良の大仏」や京都の「三十三間堂」のような著名な仏像・仏像群は、それ自体をパワースポットとして称揚されることはない。

あくまでもその“場所”が重要であり、仏像や建造物よりも自然や環境・景観に、“パワー”があるとされるのだ。おそらく、仏教の“具体的”“可視的”な信仰対象は神秘的ではないのだろう。

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しかし、パワースポットに選ばれるような霊山は、明治初年の神仏分離まで仏教と切り離すことができなかったところがほとんどなのである。

三峯神社も近世までは「三峯権現」と呼ばれ、「観音院高雲寺」という仏教寺院が十一面観音を本尊として祀っていた。戸隠神社は「戸隠権現」であり「戸隠山顕光寺」、出羽三山の羽黒山は「羽黒権現」であり「羽黒山寂光寺」がその実態だった。

ところが、これらの「山」は神仏分離令で「権現」号が禁止され、仏を廃して神のみを祀るようになったのである。

こうした神社が、現在でも寺院で仏像を安置していたとすれば、“神秘的”な雰囲気が必要な「パワースポット」とはみなされなかったかもしれない。

 

「大衆神道」と呼ぶべき信心の形

流行に左右され、歴史に目を向けず、迷信に振り回される現代の大衆と比べると、近世の庶民の方が信仰の面ではよっぽど“したたか”だった。

彼らは、共同体を維持するための固有信仰と、物見遊山、「観光」としての参詣をどこかで分けて考えていたふしがあるのだ。

江戸近郊の江の島や大山への参拝、あるいは「お蔭参り」の形をとった伊勢神宮への巡詣などは、娯楽としての性格も強く、信仰は「方便」だった。

日常の「俗」生活から離れ、非日常の「聖」空間に詣でるというのは、人聞きのよい口実であり、実際は「旅の恥はかき捨て」とばかりに遊興に励んだのである。

また、共同体を鎮守する氏神・産土神とは別に、流行神を次々と勧請することで「祭」を増やし、休日の増加を図った人々もいたことも以前に紹介したことがある(「過労の現代人よ、『休日増』を勝ちとった江戸の若者たちをご存知か」)。

しかし現在の大衆には、そうした“信仰の使い分け”は見出せない。「清正井」を待ち受け画面にすることで癒され、「お守り」を買うことで氣が得られると信じるようとする。

このような「大衆神道」や「通俗神道」というべき信心のありようは、そろそろ反省すべき時期に来ているのではないだろうか。

大震災の経験はどこに?

1995年と2011年に私たちは未曾有の災害を経験した。そして、2018年は「今年の漢字」に「災」の字が選ばれるような1年だった。自然の恵みを実感することができなくても、自然の脅威を免れることはできないのだ。

圧倒的な自然や美しい環境は、人間に都合の良い「パワー」や「力」ではありえない。通俗的なアニミズムは私たちの信仰観念と程遠いものなのだ。

「パワースポット」への関心が、歴史の古層や民衆信仰のあり方に及んだとき、このような問題にふれざるを得ないのである。