ぼくが気にしていたのは、ディール終結までに残された時間の短さだった。マーケティングも終盤に差し掛かり、投資家に今さら延期を通告するわけにはいかなかった。相談しようにも、夜遅いので高須はすでに退社している。
携帯に電話しなかったのは、高須が今からでも出社するといい出しかねないからだった。これ以上、彼女に負担をかけるわけにはいかなかった。ぼくの責任で、受け入れる旨の連絡をB社にすると、その経緯だけ社内の関係者にメールした。
「何も相談しないで勝手に決めるって、どういうことなのよ?」
翌朝、高須は出社するなり、コートを着たままぼくの席に詰め寄ってきた。予想通りの反応だった。
「相談する必要はないと思いました」
「私の意見は聞く必要がないっていうの?」
「そうではありません。今から議論をし直す手間を考えると、ディールを遅らせることはできないと考えたんです」
「同じことじゃない。私は反対よ。ディールを遅らせられないから先方のいいなりになるっていうなら、うちとビジネスするときにはみんな時間切れを狙うようになるじゃない」
「そうならないように、次回は見直させてくださいっていうお願いをしてあります」
「どうせ口約束でしょ。先方の担当者だっていつ替わるかわからないんだから、守られる保証なんてないじゃない」
「そうですけど……」
ぼくが一歩引くと高須は落ち着いたのか、ようやくコートを脱いだ。
「裏方の仕事をする人間の気持ちなんてわからないかもしれないけど、私たちは自分なりのこだわりを持って仕事をしているの。大事にしてる原則があって、それを変えるにも一定のプロセスがある。私が一番悔しいのは、そういうこだわりを一切無視されたことなの」
「別に無視したわけでは……」
「じゃあ何で? これ以上残業させられないから、いわなかったとでもいうの?」
「就業規則を破ることができないと判断したのは事実です」
「そんなのおかしいわよ。私は働きながら二人の子どもを育ててきたけどね、女だから守られたなんて思ってないわよ。さすがに産休は取らざるを得なかったけど、育休なんてほとんどもらわずに業務に復帰したわよ。別にそれで威張ろうなんて思ってないわよ。それが当たり前だったのよ。残業時間とか有給休暇に守られたから、働き続けることができたけたわけじゃない。上司の理解があったからなの。証券会社ってそういうところでしょ。
ここは人を守る組織じゃなくて、人を認める組織なのよ。頑張った人間は、男だろうが女だろうが処遇する。それがうちの会社の良さだし、本当の意味でのダイバーシティでしょ? 残業時間規制なんていう甘っちょろいもので、人が育つと思ったら大間違いよ。それだけはわかって欲しいの」
ぼくは反論もできずに、立ちつくしていた。