photo by iStock

「民主の精神」が花開いたワイマール共和国は何故14年で崩壊したか

民主主義はあっけなくナチに敗北した

「ワイマール共和国100年」に考える

今からちょうど100年前、ドイツにワイマール共和国という魅力的な国家が誕生した。世界的に文化の花開いた「黄金の1920年代」においても出色の存在で、当時最も進んだ民主憲法のもと自由な思想に満ち溢れていた。産業社会の発展のもと勃興したサラリーマン層は都市生活をエンジョイし、若者はアバンギャルドな文化を築いた。

しかし、その共和国はわずか14年でナチ党によって終止符を打たれてしまった。

なぜワイマール共和国の民主精神は、いとも簡単にナチの暴力支配に取って代わられたのか? 民主主義はさほどに脆いものなのか?

ワイマール共和国と同じ頃、日本も大正デモクラシーの精華を享受していたが、ほどなく昭和の軍国主義の台頭を招いた。そして、100年後の現代世界は独裁や排外主義へと再び民主主義からの逆走を始めている。

ワイマール共和国の栄光とその末路をたどることは、民主主義の神髄を考える点で意義深い。

ワイマールの理念と栄華

ベルリンの南西200キロほどにある、人口約6万人の小都市ワイマール。ここは18世紀末頃の公国時代にカール・アウグスト大公の保護のもとゲーテやシラーらが古典主義の花を開かせた歴史を持つ、ドイツ人の心の故郷である。

それから1世紀以上を経た1919年2月、第一次世界大戦に敗れたドイツはこのワイマールの地に国民議会を開いた。休戦条約を受け入れ、「ドイツ革命」によって共和国の道を選択したドイツだったが、首都ベルリンが相変わらず騒擾に晒されていたための策だった。そこで憲法も制定されたため、「ワイマール共和国」と命名される。

国民議会の開かれた国民劇場は、まさにゲーテやシラーらが自作の演劇作品を上演した場所だった。ワイマール共和国時代にはヴァルター・グロピウスが産業と芸術を融合させようとバウハウス(総合芸術学校)も設立された。

大量生産時代を迎えてシンプルなデザインの機能主義の時代となり、そこで取り扱われる分野は建築から家具、インテリア、工芸品まで多岐に渡る。現在は国民劇場前にゲーテとシラーの像が立ち、それに向かい合ってバウハウス博物館もある。

しかし、ワイマール共和国を代表するのは首都ベルリンだ。主張を異にする数々の思想や文化が競い合い、知識人層を中心にカフェ文化が栄え、ベルリンはパリと並ぶ文化都市に成長した。一方で、売春から麻薬まで大都会の退廃も進む。そうした混沌とした都市生活を最もエンジョイしたのが、産業社会の発展とともに20世紀初頭から急激に増えてきたホワイトカラー層だ。

この時代は新しいメディアとしてのラジオや映画も定着した。ホワイトカラー層は仕事の疲れを夕方以降にラジオや映画で癒し、あるいは種々のショーを見せるキャバレーで酔狂して憂さを晴らした。休日は流行り始めたデパートで買い物をする豊かな消費生活があり、スポーツやダンスにも興じ、さらには普及し始めた自動車を駆って家族で郊外へキャンプなどに出かけたりした。

ゲーテとシラーの像を前にするワイマール国民劇場。ここでワイマール憲法が制定された

ワイマールの理念のもと、その栄華を誇ったベルリン――。しかし、自由に満ち溢れた共和国は長く続かなかった。知識人たちは自由に発言できる共和国の恩恵を受けながら、その共和国を批判ばかりしていた。いわく「共和国には魂がない」と。

彼らは概して非政治的であり、共和国の理念を発展させようとの気概はほとんど持ち合わせなかった。彼らの理念は「ドイツ人魂」に代表される精神主義に収斂していく。ナチズムはその理念を上手に取り込み、知識人層にその先導役を果たさせた格好だ。バウハウスはその革新性から伝統的勢力の反感を買い、デッサウからベルリンへと移転した挙げ句、ナチによって閉校させられた。

多くのホワイトカラー層は、共和国末期に襲ったニューヨーク株式の大暴落(1929年)に始まる世界恐慌で経済的に没落した。すでに300万人に迫っていたドイツの失業者数は倍の600万人に膨れ上がった。彼らは共和国に代わって、ナチに生命と財産の保障を期待した。

共和国最後のワイマール大連合であるヘルマン・ミュラー内閣が福祉政策の行き詰まりで倒閣した後の国会選挙(1930年9月)で、ナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)は社会民主党に次いで一躍第2党に躍り出た(2年前の12議席80万票から107議席640万票へ)。投票率が上昇し、その浮動票の大部分がナチ党に流れ、民主的政党からの鞍替え組も目立ったことが数々の研究成果から証明されている。

共和国への反乱を起こしたのは、知識人層とホワイトカラー層の双方だった。ワイマール共和国の精神を後世に伝えたのは、皮肉にも海外に亡命したユダヤ人を中心とする知識人たちであった。