進化論における「おばあさん仮説」って何だ?

「年寄りは生物学的に無駄」は間違い
更科 功 プロフィール

定説が覆ることもある

以上の研究を行ったイ・サンヒの著書が、日本語に翻訳され、2018年12月に発売された。『人類との遭遇 はじめて知るヒト誕生のドラマ』(イ・サンヒ、ユン・シンヨン著、松井信彦訳、早川書房)である。彼女はカリフォルニア大学で人類学を研究しているが、韓国出身の科学者である。彼女はこの本のなかで、人類の進化に関するさまざまなトピックを取り上げて、わかりやすく解説している。

この本の面白いところは、いくつかのトピックにおいて(全部ではない)、イ・サンヒが必ずしも一番有力な学説を支持していないことだ。しばしば二番目ぐらいに有力な学説を支持しているのである。

内容がいいかげんな怪しい本で、定説と違う主張をする本はたくさんある。でも、内容がきちんとしている科学的な本で、定説と違う意見を紹介してくれる本は貴重である。科学には、絶対に正しい説というものは、ないのだから。

イ・サンヒの主張に突飛なところはない。近い将来、これらのトピックのなかで、定説が覆るものがでてくるかもしれない。そんなワクワクする期待も持たせてくれる本だ。

たとえば、ホモ・エレクトゥスという化石人類は、アフリカで誕生したというのが定説である。しかし、イ・サンヒは、ホモ・エレクトゥスがアジアで誕生した可能性について論じている。だが、これは、決していいかげんなデタラメではない。実は、ホモ・エレクトゥスがアフリカで誕生したと考えると、少し妙なことがあるのだ。

1つは年代だ。ホモ・エレクトゥスがアフリカで誕生したのなら、アフリカの外のホモ・エレクトゥスより、アフリカのホモ・エレクトゥスの方が古くからいたはずだ。ところが、アフリカの外であるジャワやドマニシにいたホモ・エレクトゥス(あるいはその近縁種)の年代が、アフリカのホモ・エレクトゥスと同じくらい古いのだ。

もう1つは化石の形だ。ある祖先から子孫が進化した場合、子孫の形質(つまり特徴)は祖先の形質から変化していることが多い。この場合、祖先の形質を原始的な形質といい、子孫の形質を派生的な形質という。ホモ・エレクトゥスがアフリカで誕生したのなら、アフリカのホモ・エレクトゥスは原始的な形質を持っているはずだ。しかし実際には逆で、アフリカのホモ・エレクトゥスは派生的な形質を持っている。たとえば、身長は高いし、脳も大きいのだ。

とはいえ、ホモ・エレクトゥスがアジアで誕生したことを示す、説得力のある証拠は、今のところない。したがって、ホモ・エレクトゥスはアフリカで誕生したことが定説となっている。イ・サンヒも、そのあたりの事情には丁寧に言及している。「(ホモ・エレクトゥスがアジアで誕生したという説は)あくまで仮説であって、実証済みではないことをお忘れなく。」と言い添えている態度には好感がもてる。

新しい証拠や方法によって研究が進み、科学における学説はつねに変化していく。そんな変化の中にいる科学者の言葉は、対立する意見についてしばしば鋭くなりがちだ。しかし、イ・サンヒの言葉は、いつも穏やかで柔らかい。誰かの発言とはだいぶ違うようだ。

【写真】アフリカ誕生説という定説に対するアジア誕生説
  ホモ・エレクトゥスのアフリカ誕生説が定説だが、著者はアジア誕生説という定説以外の見解も丁寧に解説する photo by iStock