「古代の戦い」から見えてくる日本という国

日本古代史と内戦と国際的契機
倉本 一宏 プロフィール

日本という国の特質


日本においては、王権そのものに対して戦闘をしかけてきた例は、ほとんどない。反逆者がみずから王権を樹立することをめざしていない以上、数々の「謀反(むへん)」というのは、せいぜいが皇太子の交代を企てたクーデター計画や権力者の更迭を要求した軍事行動、後には中央政府の出先機関である国府を襲撃した事件があったくらいに過ぎない。彼らには、国家や天皇に対する反乱といった認識は、ほとんどなかったはずである。

虹の松原。藤原広嗣の乱で捕らえられた広嗣が大宰府に護送される途中、松浦郡家で斬殺された

日本古代国家によって「異民族」とされた蝦夷(えみし)や隼人(はやと)が、実際には政治的に設定された存在であったがために、たとえば中国・朝鮮やヨーロッパ・中東など、外国では頻繁に起こった民族同士の戦争のような徹底的な殱滅戦は、日本では起こらなかったのである。敗れた側の農民を奴隷とすることなくそのまま耕作を保証したり、たとえば壬申の乱後や戦国時代の合戦後、「明治維新」後のように、降人(こうじん。降参した者)を赦免し、敗れた側の政治スタッフを勝った側が登用するというのも、日本に特徴的な事象であろう。


国家側の「追討」も、ほとんどは和平・懐柔路線を主体とした外交交渉が主たるもので、大規模な戦闘はほとんどおこなわれなかった。『日本書紀』に語られる地方勢力の「反乱伝承」が、実際には軍事行動ではなく外交折衝であったと考えられることが、それを象徴するものである。平安時代中期以降は、現地の豪族に「追討」を委ねる例も増えてきた。


これら対外戦争と内戦の回数の少なさと規模の小ささ、(言葉に語弊はあるが)優美さ、ある意味では甘さは、日本という国の特質を象徴するものだったのである(戦場で歌や詩を詠み合う国は、ヨーロッパや中国にもあるのだろうか)。

内戦と国際的契機


日本における内戦の歴史も、もう一度、世界史のなかで相対的に考え直す必要があるのであろう。もちろん、私にはそのような能力はないので、とても自分ではできるものではないが、必要な視座だけは考えつくことができる。


それは、日本における内戦の規模と様相を分析するのみならず、国際的契機との関連をつねに考えるということである。日本列島は中国大陸や朝鮮半島から、「ほどよい距離の島国」であったがため、大陸や半島における動乱の影響を受けずにいられた。外国勢力から見ても、わざわざ海を渡って日本列島を侵略するほどの熱意は生まなかったであろう。

日中朝関係、内戦・対外戦争略年表

しかし、日本国内においても、中国や朝鮮の動向とまったく無縁でいられたわけではない。それどころか、畿内の支配者にとっては、たとえば東国の動向よりも朝鮮半島の動向の方に注意を向け、その動向に大きな影響を受けていたと考えるべきであろう。

ましてや、半島と畿内との中間、と言うよりも半島との距離の方がはるかに近かった九州の勢力にとっては、朝鮮半島の動向が直接、その政治的選択に影響を及ぼしていた。

『内戦の日本古代史』においては、北東アジアの情勢と日本における内戦との関連をつねに念頭に置きながら、古代における主要な内戦を取りあげ、その様相と意義を考えている。