伊予国日振島

「古代の戦い」から見えてくる日本という国

日本古代史と内戦と国際的契機
なぜ、反逆者は新しい王権の樹立をめざさなかったのか? 徹底的な殲滅戦が起こらなかったのはなぜなのか?――邪馬台国と狗奴国の戦いから前九年・後三年の役まで、古代史上の主要な内戦の様相を明らかにした、倉本一宏著『内戦の日本古代史――邪馬台国から武士の誕生まで』。古代史ファンのあいだで話題になっている同書の「はじめに」を公開する(一部編集をおこなっています)。

「戦争を(ほとんど)しなかった国」


前近代の日本(および倭国)は対外戦争の経験がきわめて少なかった(倉本一宏『戦争の日本古代史』)。

古代において海外で実際に戦争をおこなったのは、4世紀末から5世紀初頭にかけての対高句麗戦(とその前段階の対新羅戦)、7世紀後半の白村江の戦(に代表される百済復興戦争)の2回しかなかった。

その後も対外戦争は16世紀末の豊臣秀吉の半島侵攻のみであって(海外勢力の侵攻である新羅の入寇や刀伊〈とい〉の入寇、蒙古襲来を撃退した戦闘は、ここでは対外戦争に含めない)、要するに前近代を通じて、わが国は対外戦争のきわめて少ない国であったのである。

一方、日本における内戦の方はどうだったのであろうか。じつは日本は内戦もきわめて少なく、その規模も中国やヨーロッパ、イスラム社会と比較すると小さなものであった。

古代最大の内戦であった壬申の乱も、動員された兵力は『日本書紀』が語るような大規模なものではなかったはずであるし、天慶の乱で最後まで平将門に付き従った兵はごくわずか、保元の乱で平清盛が動かした兵は300名ほどであった(戦闘自体で死んだ者は一人もいなかったという指摘もある)。

宮滝。大海人王子と鸕野王女の吉野進発から壬申の乱は始まった

戦国時代最大の戦いと言われる川中島の戦いも実際に戦闘がおこなわれたのは2回に過ぎない。天下分け目の戦いと称される関ヶ原の戦いは兵の数こそ大規模であったが、数時間で決着がついているし、そもそも戦闘に参加しなかった部隊も大勢いた。

もちろん、個々の合戦の現場における実態は苛烈なものであり、犠牲になった多くの人たちは気の毒としか言いようがないが、たとえば中国・韓国やヨーロッパの研究者が見たら、おそらく笑うのではないだろうか。何と平和な国だったのだろうと。実際、私の友人の海外研究者たちは、みな日本史の平和さについて感心(かつ感動)している。


もうそろそろ、「権力による人民からの収奪と、その矛盾に対する解放への戦い」といった歴史観(かつ政治観)を無理に日本史にあてはめるという視座から、日本の歴史を解放すべきではないだろうか。

日本の王権


日本は島国であったがため、異民族からの侵攻を受けることもなく、またそれを想定することもなかった。さらには、日本に国家というものが成立したとき、中国のような易姓革命を否定して世襲を支配の根拠とした王権を作ったため、王権を倒そうとする勢力もついに登場せず、王権側も易姓革命に対応するための武力を用意していなかった。


加えて、天孫降臨神話で天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫にあたる瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に随伴したとする天児屋命(あめのこやねのみこと)を始祖として設定した藤原氏が、王権を囲繞する支配者層の中枢部を占めつづけることとなった。これではいくら藤原氏が権力を強めても、みずからが天皇家に代わって王権を樹立することなど、思いも寄らなかったであろう。

その後に軍事力で権力を握った平氏や源氏も、天皇家から分かれた氏族であったために、王権を武力によって滅ぼして新たな王権を作ることよりも、女(むすめ)を天皇家に入れて所生の皇子を次の天皇に立て、みずからは外戚として権力を振るうという、藤原氏と同じ方策をめざした。古代王権が確立した神話に基づく王権を否定し、新たな支配の根拠を作り上げるよりも、それははるかに簡便で効果的な方法だったのである。