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岐阜・山梨の米軍基地は、なぜ撤退して沖縄に集められたのか

やはり「沖縄」だけの問題ではない

終戦後におかれた岐阜の米軍基地

岐阜県の各務原(かかみがはら)に約4000人規模の米軍が進駐したのは1945年10月だった。終戦の2ヵ月後である。

各務原はもともと基地の街だった。1876(明治9)年に旧陸軍の第3師団砲兵演習場が設置され、その後、各務原陸軍飛行場が開設された。進駐した米軍は飛行場を接収し、「キャンプ岐阜」と名付けた。

朝鮮戦争がはじまると「キャンプ岐阜」は米海兵隊基地として機能した。駐留兵士は約1万2000人にふくれあがった。

基地の門前で生まれ育った岩井稔さん(81歳)は、そのころの街の様子をはっきりと覚えている。

「商店街の看板が英語に書き換えられ、そりゃ町は一気ににぎわいましたよ」

歓楽街ができた。バーが林立した。米兵相手の女性たちも各地からやってきた。派手なネオン看板が軒を連ね、基地の門前である市内那加地区は"岐阜の上海"とも呼ばれた。

岩井さんの記憶に残る米兵は、子どもたちにガムやチョコレートを分けて与える気さくな人たちだった。

 

喧嘩や窃盗、性犯罪が増加し…

だが、海兵隊の駐留以降、治安が悪化したのも事実だった。

街の各所で米兵絡みの事件が増えた。喧嘩や窃盗、ひき逃げ、女性に対する性犯罪も相次いだ。夜間、地元の女性や子どもは外出を控えるようになった。

1953年の春だった。自宅で昼食をとっていた岩井さんは銃声を聞いた。何事かと外に飛び出してみれば、足を撃たれた米兵が倒れていた。

聞けば、酒に酔った米兵が近所の家の窓ガラスを壊して侵入しようとし、それを制した警察官との間でもみあいとなり、発砲されたのだという。発砲した警察官もまた、米兵に殴られていた。

地域の若者たちが警察官の擁護運動をはじめようとしたが、肝心の警察に止められたという。「米軍を刺激してはならない」。それが理由だった。

だが、朝鮮戦争が始まって海兵隊が進駐して以降、地元では反基地運動が盛り上がっていた。

当時、反対運動の先頭に立っていたのは後に社会党衆院議員となる渡辺嘉蔵氏だった。そのころは地元の労働運動のリーダーを務めていた。渡邉氏は16年2月に亡くなっているが、私は生前の氏に何度か会っている。

晩年、外国人技能実習生の受け入れ事業に関わっていた渡辺氏とは、その在り方をめぐって何度も衝突した。言い争ったこともある。だが、激しい議論の合間に、反基地運動の思い出について聞かされたこともあった。

「岐阜を米軍の出撃拠点にしたくなかった」

渡辺氏はそう力説した。

「地域として戦争に加担したくない。その思いだけで反基地運動を続けた」

そうした彼の言葉はいまでも強く印象に残っている。

反対運動は盛り上がった。政治的な立場を問わず、多くの人が参加した。「海兵隊は出ていけ」とこぶしを突き上げた。