「子殺し」「母性崩壊」…日本で児童虐待はどう捉えられてきたか

90年代に社会問題化、ではその前は?
広井 多鶴子 プロフィール

母性喪失と社会の被害者・犠牲者

では当時、頻発した子殺しは何が要因だと考えられていたのだろうか。

この頃、さかんに言われたのは「母性崩壊」や「母性喪失」である。実際、1歳未満の乳児を殺害する「嬰児殺」のほとんどが、女性によるものだった。

高度経済成長期を通じて家事育児を女の任務と見なす性別役割分業が浸透して行く中で、嬰児殺の加害者の女性割合は、1946年の72.8%から、73年には92.4%に増加する(法務省『犯罪白書』1974年版)。

だが、なぜ「自然」に備わった本能であるはずの「母性」が崩壊するのか。

 

『朝日新聞』は、1974年9月3日から8回にわたって「母性喪失―子殺しの風土」という連載を組んでいる。その第1回目の記事は、冒頭、次のように書く。

「『加害者』の親たちは、一面『被害者』でもある。過密住宅や貧困、よそよそしい人間関係やいびつな家庭環境、貧困な福祉、偏見」。「現代では、親子関係の絆をむしばむ病巣は、複雑にからみあっている。母性を失ったのは、社会そのものではあるまいか」

70年代の子殺し問題は、一方では「母性」を失った母へのバッシングを巻き起こしたが、他方でこのように、子を殺す母を社会の「犠牲者」や「被害者」として位置づけ、その原因を社会に求める論調をも生み出した。子を殺す母の「母性」は、社会によって崩壊させられたというのである。

〔PHOTO〕iStock

巣鴨子ども置き去り事件

社会を批判し、母を社会の被害者とする同情的な見方は80年代も続く。

1988年には、豊島区巣鴨で母親が4人の子を置き去りにした巣鴨事件が起る。是枝裕和監督、柳楽優弥主演の映画「誰も知らない」の題材になった事件である。

母親(40歳)は3人の男性との間に6人の子を出産。1人を養子に出し、1人は生後3ヵ月で死亡(遺体で発見)。長男(14歳)と5歳、3歳、2歳の4人がマンションに置き去りにされ、うち最も幼い2歳の女児が長男の知人に殺害される。子どもは養子に出された子以外出生届が出されておらず、長男は学校にも行っていなかった。

母親は保護責任者遺棄、同致傷の罪に問われ(求刑懲役3年)、懲役3年、執行猶予4年の執行猶予付き有罪判決が言い渡された。

執行猶予を付けたことについて、裁判官は、「親の責任を放棄した罪は重いが、同棲相手と結婚してやり直すと誓っていることなどを考慮し、今回に限り、自力更生の機会を与えることにした」と述べたという(朝日新聞 1988年10月27日)。判決は子を置き去りにした母親に対してきわめて同情的だった。

新聞も同様である。『朝日新聞』はこの事件について、母親の「転落」や「悲劇」を描き(1988年8月1日)、その背景に戸籍の重さや「異端」を排除する「閉鎖社会」があると書く(1988年12月20日)。

このように、児童虐待問題が登場する以前の80年代は、新聞も裁判も子殺しをするに至った母親を社会の被害者・犠牲者と位置づけ、母親に同情の目を向けた。問題にすべきは、母以上に、母を子殺しに向かわせた社会の方だった。

その意味で、88年の巣鴨事件は「置き去り事件」であって、いまだ「児童虐待事件」ではなかった。

では、1990年代、なぜ児童虐待が社会問題となったのか。2000年に児童虐待防止法が制定されるが、それによって虐待の捉え方はどう変わったのか。後半で見て行こう。

(つづく)

詳しくは、以下の拙稿参照
「児童虐待をめぐる政策と言説―児童虐待防止法は何をもたらしたか」『日本教育政策学会年報』19号、2012年。
「近代家族規範の形成と児童虐待問題の登場」比較家族史学会『家族研究の最前線③子どもと教育』日本経済評論社、2018年。