「子殺し」「母性崩壊」…日本で児童虐待はどう捉えられてきたか

90年代に社会問題化、ではその前は?
広井 多鶴子 プロフィール

「子殺し」は児童虐待ではなかった

同調査でもう一つ注目される点は、その分類である。この調査では虐待と遺棄、殺人が別のカテゴリーとして分類されている。

子殺しに関する先駆的な研究書である佐々木保行編の『日本の子殺しの研究』(高文堂出版社、1980年)でも、虐待と遺棄は「子殺しの周辺の問題」と位置づけられており、虐待と遺棄は「子殺し」と区別されている。

子殺しが虐待によるものとして捉えられる場合であっても、その範囲はかなり限定されていた。

栗栖瑛子は、1950〜71年に東京23区内で発生した実子殺207件をその動機から、子どもが不要、子どもが暴君、子どもへの憐憫など、6つに分類しているが、虐待による殺害はそのうち20件にすぎない(「調査資料からみた子殺し」中谷瑾子編『子殺し・親殺しの背景』有斐閣選書、1982年)。

今日であれば、栗栖が分析した実子殺のほとんどが虐待死に分類されるだろうが、この当時、虐待による子どもの殺害は、子殺しの一部にすぎなかったのである。

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虐待概念の狭さと体罰の容認

このように、70年代、児童虐待が問題にならなかったのは、一つには、虐待がきわめて狭い範囲に限定されていたからだろう。

先の1973年調査は、虐待を「暴行等身体的危害あるいは長時間の絶食、拘禁等、生命に危険をおよぼすような行為がなされたと判断されたもの」と定義していた。

すなわち、「生命に危険が及ぶような行為」が実際に行なわれたと判断されない限り、虐待とは見なされなかったのである。

 

もう一つの要因は、親の子に対する体罰が実生活ではもちろん、法的にも容認されてきたからだろう。教師の体罰は明治以来法律で禁じられてきたが、親の体罰は民法上の親の懲戒権の行使として認められてきた。

たとえば、1993年に出された日本最大のコンメンタールである於保不二雄・中川淳編『新版注釈民法(25)親族(5)』(有斐閣)は、親の懲戒権の方法について次のように書いている。

「懲戒のためには、しかる・なぐる・ひねる・しばる・押し入れに入れる・蔵に入れる・禁食せしめるなど適宜の手段を用いてよいであろうけれども、いずれも『必要な範囲内』でなければならない」

このように、同書は抑制的ながらも、子どもの教育に「必要な範囲」であれば、なぐる、しばる、禁食させるといった体罰を親の懲戒権の範囲として認めている。

子どもに重大な怪我をさせたりしない限り、こうした体罰は虐待ではなく、しつけの手段として許容されていたのである。