素晴らしい日本人に出会って

それから5年後。とても素敵な日本人に出会いました。大手証券会社の方なのですが、オーラがあり、ミーティングでのプレゼンに無駄が一切なく、「真のグローバルリーダー像」そのものでした。思わず「プレゼンが素晴らしいのですが、なにかなさっているんですか?」とお聞きしてみました。

すると、「スピーチを徹底的に学んだ」、とおっしゃったのです。

早速スピーチを学ぶために「トーストマスターズ」というスピーチ教室に入りました。ここでは月2回2時間のクラスがあり、そこで自分でスピーチをしたり、人のスピーチを聞いたり、他の人の原稿の文法をチェックしたり、他の人のスピーチの論評を考えたり。とても多くのことを学びました。

驚くべきは、ここで学んでいる人の多くはネイティブということでした。つまり「話し方」は「英語力とは別の能力」だということなのです。

このクラブは毎回国際スピーチコンテストに出場していました。そこで、2013年、私が国際スピーチコンテストに出場することになったのです。

私は「ポジティブな思考があなたの現実を変える」をテーマとしてスピーチ。これがトントン拍子に進み、決勝に進むことになりました。このときジャニスという黒人中年のベテランの会員の方が「あなたは素晴らしい可能性を持っている。ただ決勝は甘くないわよ。私が無料でコーチングしてあげる」と提案。ジャニスのコーチの下、日本人では初めて、私が優勝することができました。

「伝えたい内容がある」「話したい思いがある」それは、言語を超えて大切なことです。まずはそれがある前提で、「ではどうしたらきちんと伝わるか」が重要なのです。机上のテストや、生徒のスピードに合わせて話してくれる英会話学校ではそれは身につきません。発音がネイティブだとしても、話す中身がなく、きちんと伝えることができなければ無意味です。

まずは「何を、どう伝えるか」なのです。

衝撃の乳がん宣告

それから私はパブリックスピーチに邁進するようになりました。1999年の世界チャンピオンであり、プロスピーカーとして全米で活躍しているクレッグ・バレンタインが始めた「ワールドクラススピーキング」という、スピーチコーチとしての認定プログラムを受けました。

訓練を重ねて、東京ではかのTED×WASEDAに出ることもできました。

そしてグローバルスタンダードなブレイクスルー・メソッドを広めれば、誰でも異文化コミュニケーションができる、と確信を持つようになりました。

ところが、そんな時に青天の霹靂の出来事が起きました。

2017年の2月6日、私は乳がんの告知を受けたのです。

聞いた時はショックで頭が麻痺したようになり、なにより5歳になったばかりの娘のことが気がかりでした。

翌日の7日は国際スピーチ大会の第1次予選。それでも大会に出て、予選を1位通過。ひと月後に第2次予選。それはがんの全摘手術をする予定日の3日前でした。出場し、これも1位で通過。そして第3次予選が、全摘手術の1カ月後で1位通過。無事に決勝に進出しました。

決勝はNYで、5月に予定されていました。私は6月に乳房再建手術を控えていました。

「ナツヨ、なんでそんなたいへんな時にスピーチをやるんだ? 無理しなくてもいいんじゃないか?」

当時、コーチをしてくれていた1995年の世界チャンピオンのマーク・ブラウン氏は、そう心配して言ってくれました。

大変な時だから、スピーチなんてしなくていい。

でも私はこんな大変な時だからこそ、心の支えが必要でした。

たとえるならスピーチとは、胸から何百本の紐が出ていて、それがみんなとつながっているようなイメージでしょうか。大変な時だからこそ、スピーチしたい。自分のストーリーをみんなと共有して、多くの人と心と心でつながりたかったのです。

同時に、乳がんを経験したことで、「私にしか語れないストーリーがあるはずだ」と思えたのです。この時に伝えることとの素晴らしさを改めて感じ、「スピーカーとして生きていく」、という覚悟が生まれました。

手術と手術の合間にコンテストを勝ち進みながら、プロフェッショナルスピーカーとして、NSA(全米プロスピーカー協会)のメンバーとなりました。伝えることそのものを仕事にするプロのスピーカーとして歩み始めたのです。

TED出演時の信元さんのスピーチ。留学時代What's up?が分からなくて泣いていたことも話している

コンサルタントの仕事もしながら、「伝えたいことを間違いなく人に伝えられるメソッド」を自分なりに組み立てていきました。自身が乳がんにかかったことを通じて、プロスピーカーとしてのミッションを再確認したのです。次回からは、そのメソッドの一部をお伝えしていきたいと思います。