日本の中高生の中で、英語での国際スピーチコンテストに出場する人が増えている。毎年決勝に10人強のみが出場できるスピーチコンテストの国内大会も大盛り上がりだ。それは、英語の重要性のみならず、「人にきちんと伝えること」が現代社会により求められている表れだろう。

日本人が英語でのスピーチに出場するだけですごい! と思いがちだが、実はもう5年以上前に、NYで行われるスピーチコンテストで3回優勝した日本人がいる。

それがNYでプロスピーカー&戦略コンサルタントとして活躍する信元夏代さんだ。

驚くべきは、彼女が生粋の「日本生まれ日本育ち」だということだ。ネイティブではない彼女が、数多いるネイティブスピーカーを押しのけて優勝し、今こうしてプロとして教えるまでに至ったのは何故なのか。そこには「英語の本当の学び方」のヒントも隠されていた。

NHKラジオ英会話を欠かさなかった学生時代

中学1年生から大学まで、NHKのラジオ英会話を基礎英語からビジネス英会話までずっと聞いていました。もとから英語の勉強は好きで、上達したいと強く思っていたのです。ラジオを聴けないときには母にカセットテープに録音してもらって欠かさず聞いていました。

留学をしたのは大学3年生のときのことです。お金もかかりますし、親も簡単には留学をさせてくれません。奨学金で通える栄誉ある学校に合格して行きたいと言えば、両親もNOと言わないだろう、そう考えました。

それからは留学に向けての猛勉強です。英語の小論文と二次面接の勉強のための独学で行いました。留学に必要だったのでTOEFLを受けたところ、希望している学校の平均より50点も低かったので過去問を繰り返し解いて、有言実行。無事に合格し、「私、英語できるじゃない!」と英語力に自信を持っての留学となりました。

ところが、自信があったはずの英語が、まったく通用しなかったのです。

「英語できるはず」が少しも話せない!

学校はミズーリ州のセントルイス・ワシントン大学というところです。奨学金で行っていますから、私の成績や行いが悪いと、今後早稲田から奨学生を出せなくなるかもしれません。責任とプレッシャーも感じていました。

ところが、成績どころか、全然会話についていけないのです。まず、普段の会話がわからない。What’s up?(調子どう?)と言われて上(up)を見上げてみたり、That sucks!(サイテー)と聞いてソックスがどうした? なんて思ったり。俗語が全く分からないため、みんなとの会話が全然できなくて、「話せない……」と恐怖を感じるようになっていました。

アジア、ヨーロッパ、中南米……世界中から集まった留学生たちの多くは、私より英語ができないのに堂々としていて、社交的で積極的でした。びくびくしている自分とは違う在り方をみて、「こんなところでやっていけるのだろうか」と不安になりました。みなが集まっている輪に入るのが怖くて、毎日食事が終わるとすぐ部屋に入り、ドアをぴしゃりと閉めていました。劣等感でいっぱいで、二日に一度は泣いていました。

英語できない?だから?

大きな転機が起きたのは、それから3ヵ月ほどした金曜日のことです。

学生たちは、毎週金曜日になるとビールを片手にパーティです。もともと声を張り上げないと話せないパーティは嫌いだったので、参加するなんてとんでもないと思っていました。

しかし部屋に戻ろうとしたあるとき、ネートという男の子に腕を掴まれて、「君っていつも人を避けてない?」と聞かれたのです。

私は当時、「交流したくない→話せない→ますます関わりたくない→でも話したい」という矛盾でいっぱい。自分のなかのモヤモヤが張りつめていて、水をたっぷり詰め込んだ風船のような状態でした。だからネートのこの言葉に、風船をパンと割ったようになり、大泣きしてしまったのです。パーティをやっている人たちは驚いて、何事かと私の周りに集まってきました。

私は泣きながら片言の英語で、だって英語上手くないし、話せないし……と言いました。そうしたら、

So What?(それが何?)

あっと思いました。この瞬間、自分の中ですごく気にしていたこと、「英語が上手くないと渡り合えない」と思っていたことから解放されたのです。自分の下手な英語で分かってもらえないかもしれない、相手が話していることがわからなかったら会話に参加してはいけない。そう思い込んでいたけれど、実は周りはまったく気にしないのだと。

その翌日から、私はドアを閉めなくなり、同じフロアの比較的話しやすい留学生のところに無理やり質問を作って、聞きにいくようになりました。

留学したばかりのときの信元さん。最初は泣いてばかりだった