借金まみれとなって創刊した新雑誌「講談倶楽部」に訪れた危機

大衆は神である(32)
魚住 昭 プロフィール

返品の山、山、山!

『講談倶楽部』は定価18銭、当時としては異例の一万部を発行した。巻頭を飾ったのは、政治講談で知られた伊藤痴遊の「寛政の名奉行」である。尾崎紅葉門下の細川風谷による「半井(なからい)法眼と中村歌右衛門」などの講談が並び、浪花節の速記も収録された。落語の速記も載るはずだったが、創刊号には間に合わなかった。

 

発売直後、清治が方々の書店に問い合わせてみたら「相当売れている」という話だった。

だが、店頭で売れ残った分は版元に返品される仕組み(委託販売)になっていたので、各地の書店で実際に何部売れたかは、返品期限(通常の雑誌は3ヵ月以内。創刊号にかぎって半年もしくはそれ以上とされていた)を過ぎてみないとわからない。

『講談倶楽部』の返品がはじまったのは明治45年の年明けからだった。だらだら返ってくるので、これからどれくらい返ってくるのかさっぱりわからない。

「ずいぶん返品が来だしたな」
「もっと売れたはずだがな」

毎日返品が積み重なっていくにつれ、団子坂の社内は憂鬱な空気に包まれていった。

そのうち返品雑誌の置き場に困るようになったので、新たに物置をつくって返品蔵にした。それがたちまち一杯になり、今度は家の床の間や、各部屋の端のほうに返品を積んだ。その重みでとうとう根太(床板を受ける横木)が抜ける騒ぎまで起きた。

〈この累々たる返品、而して尚いつまで続くか分らぬ返品の大洪水が、あとからあとから押し寄せて来る。そして、どの部屋もどの部屋も、その洪水に溺れんばかりの有様になって行く。返品の山が光線を遮って、家を暗くし人の心を暗くして行く。同時に、借財の方も、返品と同様に、どんどん積って行く。さなきだに、金に困っている際にこの有様、少し小心に、神経質に考えるならば、既にこの状態は致命的のものであった筈である。それを「大きな心を持て」とか「無理にも笑え」とか「笑で悲観を吹き飛ばせ」とか「よい修養問題だ」とか言っては、無理にも自分の心を励ましていた〉(『私の半生』)

創刊号の実売部数がわかったとき、清治と左衛は心底落胆した。売れたのは1万部のうち1800部にすぎなかった。秀英社は玄人だけに、とうにこの結果を見越していたらしい。創刊号を刷っただけで「どうも忙しくて都合がつきかねる」と第2号以降の印刷を断った。

八方手を尽くして代わりの印刷所を探した。その結果、博文館印刷所(のちの共同印刷)が第2号を引き受けてくれたが、それも1度切りで断られた。第3号からは名も知れぬ貧弱な印刷所になった。

※「大衆は神である」次回は1月13日(日)公開予定です。ご期待ください。