借金まみれとなって創刊した新雑誌「講談倶楽部」に訪れた危機

大衆は神である(32)

ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、講談社創業者・野間清治の波乱の人生と、日本の出版業界の黎明を描き出す大河連載「大衆は神である」。

さまざまな困難を乗り越えて、清治は自身にとって2冊目となる新雑誌の創刊目前までこぎつけたところで、突如、不幸の波に襲われる。生まれて間もない次男・康清の死、そして、新雑誌はあわや座礁かという危機にみまわれる!?

 

第四章 団子坂の奇跡──窮すれば通ず⑴

次男・康清の死

『講談倶楽部』創刊を前にした明治44年(1911)夏、左衛は長男・恒(2歳)と、次男・康清を連れて徳島に里帰りした。左衛はこのときすでに京橋の小学校を退職している。

前年11月に生まれたばかりの康清は「血色もよく、縹緻(きりょう)もよく、快活な子供で、抱いてさし揚げると、とてもいい顔をして、きゃっきゃっと笑う。可愛くて仕方がない。この可愛いところを、妻の里の両親に見て貰いたい考えから、妻は、恒と康清とを連れて、四国の徳島へ行った」と、清治は『私の半生』に記している。

徳島に着いた左衛からは毎日のように実家での様子を伝える手紙が届いた。恒と康清が今日どうしたとか、どこへ行ったら、何と言って褒められたとか。

ところが、9月も半ばに差しかかろうとしたとき、清治のもとに徳島から電報が届いた。康清が危篤だというのである。

清治は取るものもとりあえず、徳島に向かった。どんなに気は急いても東京から徳島まで2日かかる。清治が着いたとき、康清は息をひきとっていた。脳膜炎であったとも、疫痢(えきり)であったともいう。清治は団子坂で留守を預かる大沢一六と安元碧海あてにこんな手紙を書いた。

〈なぜ康清は死んだのでしょう? 衣服を見るにつけ、人が訪れ来るにつけ、妻のなげきに候。一家のもの狂せんばかりの有様、人事の悲惨今日此のごろはじめてかみしめ申候。(略)ようやく葬式相すまし申候。(略)小生は壺中の白骨を眺めつつ痛切の悲哀骨に徹する次第に候〉

小さな骨壺を抱き、長男・恒を連れ、清治と左衛は東京に戻った。『私の半生』の述懐。

〈東京に着くと、それまで抑えに抑えていた悲しみが、一時に湧いて、私も妻も、哀しみ嘆きの辛さから、どうしても抜け出すことが出来ない。朝もその話、晩もその話で、見るもの聞くものが皆思い出の種。子供を喪ったことのない人には、こんなにまで辛いとはお分りにならないでしょうが、何ものといえどもこれを慰むる力はないものであります。僅か二歳にしてかくの如し、況んや、五歳にして喪い、十歳にして死別す、その哀傷如何ばかりであろうか〉

だが、いつまでも泣いてばかりいられない。『講談倶楽部』の創刊日(11月3日の天長節)までに解決しなければならない問題が残っていたからだ。