「頑張れよ、生きていくって大変だから」
これは、2018年の春、当時読売巨人軍の監督だった高橋由伸さんが慶應大学野球部の後輩である僕に言ってくれた言葉です。僕がフジテレビアナウンサーをやめてフリーで活動する報告のために、神宮での試合前に声をかけた時のことでした。
小学校4年生から野球をはじめ、すぐに6年生と一緒のレギュラー。以降、中学、高校、大学、そして1998年からはプロ――すべての場所で「天才」と呼ばれ、日本代表や主将、そして監督という輝かしい立場にいた由伸さんから、よもや「生きていくって大変」という言葉が出るとは……。
この時僕は、会社組織にある意味で守られている状態からフリーになることを選んだ僕への、戒めを込めた素晴らしいはなむけの言葉だと受け取りました。
それから約半年後、今度は由伸さん自身が「組織」から抜ける選択をしました。あの言葉を僕にかけてくれた由伸さんが、ジャイアンツというとても大きな「組織」から足を踏み出して、これからどうしようと思っているのか――。その胸のうちを、辞任後初めて、語ってくれました。
(インタビュー・文/田中大貴 撮影/森清)

まだ実感がない
――まずは「お疲れさまでした」といわせてください。
高橋 大変疲れました(笑)。まあ、チームを優勝に導けなかったんでね。それが心残りでした。振り返ってみると、なかなか結果が出ないので大変だったところはありますけど、やってみないとわからないこともあったし、いい経験をさせていただきました。
――初めてこんな自由な時間を過ごしているのではないでしょうか。
高橋 小さい頃から野球を始めて、ユニフォームを着ないということがなかったから、「やっとユニフォームを脱ぐ」、という感じですよね。ただ、今はそんなに実感がなくて。これまでの11月や12月とやってることがそんなに変わらないでしょう。シーズン中会えない人に会ったり、ゆっくりしたり、いつものオフもこんな感じだから。
年が明けたら変わるんだと思う。選手の時みたいに体を動かしたり、チームの構成会議とかが入ったり……といったことはもうないし、2月になったら宮崎キャンプには関係者としていくけれど、選手が入っていくところには入っていかないわけで。そういうことがあって改めて「ユニフォームを脱いだ実感」「区切りがついた実感」を感じるんだと思いますね。
――辞任を発表した翌朝は、どんな感覚だったんですか。
高橋 朝起きた時は、(広島の遠征先から)朝イチで帰って、子どもの運動会に行きましたよ(笑)。この直前は、これまでで一番しんどい試合が続いていたので、ちょっとほっとしたというか、肩の荷が下りたというのが正直なところ。クライマックスに負けたら終わりだ、とにかく何とかしなきゃという思いで必死にやっていたから……。
――娘さんを幼稚園に送っていったりしているんですか。
高橋 ……迎えには行きます(笑)。今までなかなか出来なかったらから「送り」もやりたいんだけど、まだ、朝はゆっくりしたくてね。

娘たちと妻が泣いた
――これから、グラウンドでユニフォームを着ている姿を見られなくなるわけですよね。現役を引退された時、お嬢さんが、「パパがバッターボックスに立たなくて淋しい」と言っていました。今回、娘さんたちのリアクションはどうだったんですか。
高橋 上の子が(現役引退の時も今回も)どっちも泣いたね。下は現役引退の時はそんなにわかってなかったけど、今回は泣いたみたい。妻は……本人から直接聞いてないからわからないけど、選手の時より監督をやった3年間の方が彼女も大変で、気苦労もあったのかなと思うんですよね。だから現役をやめる時の方が泣いたかも。今回はほっとした感もあるのではないかな。
――私も「フジテレビをやめる」と言った時には子どもに淋しいって言われたんですよ。「これまでは8チャンネルつけたらパパがいたのに、もうパパを観れなくなっちゃうの?」と。いやいや、これまで以上にテレビに出られるように頑張るから、とは伝えましたが(笑)。由伸さんはどのタイミングでお嬢さんたちに伝えたんですか?
高橋 子どもには、発表される直前までは言わなかったんです。その日は(クライマックスシリーズの)広島遠征に行く時でした。僕が家を出ようとした時に学校から帰ってきたくらいのタイミングで、「今から行ってくるけど、これで負けたら(監督を)やめるから」って話しました。僕の前では泣かず、あとで妻と3人で話している時に2人とも泣いていたそうです。上の子は「なんとなくそんな気がしてた」って言っていたとか。子どもながらに、こっちに気を遣っていたみたいです。