内田樹「器に合わせすぎては、学びは起動しないのです」

神戸女学院大学教授 内田樹
セオリー

 もちろん、みんなそのやり方には批判的なんだけれど、成功例がなければこれほど広範に採用されることはないわけで、それなりに成功するわけですよ。比較的簡単に成果が出る。だから、みんなついその方法を採用してしまう。戸塚ヨットスクールの場合と同じで、ぎりぎりまで生徒を追い込む。誰も助けてくれない、自分ひとりの才覚でどうにかする以外生きる道はないという状況になると、人間は潜在能力が爆発的に発現するようになっている。これは生物学的装置として、そうなっている。

 でも、そのときに絞り出す心身の能力というのは、喩(たと)えて言えばお母さんが「もしものことがあったら使いなさいよ」と言って服の襟に縫いこんでくれた1万円札みたいなものなんです。所持金がゼロで飢えて死にそうなときに、「そういえばお母さんが」と思い出して襟を探ると、1万円が現れる。それで当座は救われる。

 痛みとか苦しみというのは「長生きするため」の生体反応だから、スパルタ的負荷をかけられると「これ以上身体を痛めつけるのはやめてください」という身体からのアラームが鳴る。でも、場合によってはとにかくこの場を生き延びなければ「長生き」もくそもないという限界状況に遭遇するときだってある。そういうときは生きるために痛覚や不快感は一時的にオフにできる。今を生き延びるために「長く生き延びるための装置」のリミッターを解除することができる。そういう逆説的な緊急避難の装置も生物の身体には備わっている。スパルタ教育というのは、そのリミッターを解除する方法なんです。

追い込み型では胆力がつかない

━━━ 空手や剣術では、次々に何十人という相手と戦わせる稽古法がありますが、きっとそれもそういう力を開花させるための修行なんでしょうね。

内田 そう。日本人は昔からこれがけっこう好きなんです。「ここを乗り切らなければ死ぬぞ」という局面まで追い込んで、「大化け」させるというメソッドが。

 日露戦争以降の日本の軍隊はこの方法を体系的に採用した。よく言われますけれど、日本の軍隊には「ロジスティックス(兵站(へいたん))」という概念がなく、補給も何もない状態に兵士を追い込んだ。3日分しか食料を持たせずに前線に送り込む。食いたかったら、現地で略奪行為をするしかない。鬼にならないと生きられないように仕向けて、市民を兵士に改造する。

 反対に、アメリカ軍はロジスティックスにすごく力を入れますよね。ロジスティックスっていうのは、平たく言えば、「日常性を戦地に持ち込む」ことでしょう。アメリカ軍は昔からどこに戦争に行っても、バドワイザーやコカコーラやハンバーガーが飲み食いできる環境をすぐに整えるでしょう。まるで昨日まで営んでいた市民生活の地続きのところに前線があるように舞台装置を構築する。それは彼らは彼らで「人間というのは日常的な合理性の中で生きているほうが通常はパフォーマンスが高い」という経験則があるからなんです。市民生活の続きをしているようなノンシャランな兵隊の方が「強い」という一個の軍事的思想がある。どっちがいいというものじゃない。どちらも実際にたくさん戦争をしてきて、その経験から引き出してきた経験則なんです。「人間を強兵にするためにはどうすればいいか」という目的のために、一方は「日常から切り離す」という方法をとり、一方は「あえて日常的にふるまう」という方法をとる。たぶんケースバイケースでそれぞれに有効なんだと思う。

 だから、日本のスポーツ界は「日本の旧軍型」の心身開発体系を採り入れた。でも、この追い詰め型教育には深刻な難点がある。それは「胆力」がつかないことです。

 たしかに人間を追い詰めると、恐怖や苦痛や不条理に対して「鈍感」にはなる。でも、入力に対して鈍感になることと「胆力がある」ことは違う。胆力があるというのは、極めて危機的な状況に陥ったときに、浮き足立たず、恐怖心を持たず、焦りもしないこと。どんなに破局的な事態においても、限定的には自分のロジックが通る場所が必ずあると信じて、そこをてがかりにして、怒りもせず、絶望もせず、じわじわと手をつけてゆく。とんでもなく不条理な状況の中でもむりやりに条理を通していく。胆力とはそういう心構えではないかと僕は思っているんです。頭に血が上って鬼になってしまうということと胆力があるということは方向がまったく違う。僕は日本型教育の最大の問題は、人を鈍感にはするけれど、胆力がつかないことにあるんだと思う。それが現代の日本人にいちばん欠けているものですよね。