内田樹「器に合わせすぎては、学びは起動しないのです」

神戸女学院大学教授 内田樹
セオリー

師弟関係は「おせっかい」からはじまる

女子学生に剣と杖の実技指導をする内田さん

内田 それまでは、「先生の持っている知識や技術を教わりたいんです。お礼をするのでぜひ教えてください。お願いします」という人がいて、「うむ、それでは教えてやろう」という先生と出会う、それが師弟関係というものだとずっと思っていた。片方に教える技術や知識があり、それを教わりたいと思う人がいる。需要と供給が一致すると師弟関係が成立する。商取引の「等価交換」のようなものと理解していた。

 ところがそのとき、「教える」という行為はまず最初に「教えたい」という教える側の「おせっかい」から始まるんだということがわかった。「おせっかい」と言ってもいいし、「贈与」と言ってもいいけれど、とにかく先方が「ほしい」と言ってるわけじゃないことを「上げるよ」と押しつけるわけだから、ほんとうに「余計なお世話」なんだ。

 最初は、習いたい人なんていないんです。だって、その知識や技術がそもそも何の役に立つのか、そっちは知らないんだから。でも、合気道に限らず、技術や知識の伝承においては、それこそがすべての始まりなわけでしょう。マーケティングの語法で言えば、「ニーズがないところにサプライだけがある」というのが、実は「教える」という行為の始点なわけですよ。

 商品経済では通常、まず需要があって、それに応えるべく供給が生まれる。武道の場合も、「武道をやれば体が強くなる」「礼儀正しくなる」「喧嘩が強くなる」といった分かりやすい有用性を求めて習うという人もいることはいる。しかし、多くの場合はそうではない。近所に道場ができたからとか、最近腹回りが気になるからとか、何となく友達に誘われてといった理由で、道場に足を運ぶ。するとそこに「君に教えたいことがあるんだよ」という人がいて、その人のせいで、「学びたい」というニーズが事後的に出現してくる。それが師弟関係の基本であることに、僕はその台風の夜に気づいた。

スパルタ教育の功罪

内田 教える資格というのは有用な知識や技術を持っていることではなく、何でもいいから、自分が持っているものを誰かに贈与したいという「余計なおせっかい」をしたくなる傾向のことだと思うんです。人は人、私は私、他人におせっかいされたくないし、他人におせっかいもしたくないという人は、教えるのに向いていない。これはどんな領域でもそうじゃないかと思います。

 漫画には教えることの本質的な過剰を描いた名作がいくつもあるでしょう。たとえば、テニス漫画の『エースをねらえ!』がそうでしょ。宗方コーチがろくにラリーもできない一年生の岡ひろみを見て才能を予感して、いきなり選抜メンバーに抜擢する。岡ひろみは「なんで私みたいな下手な人間を入れるんですか」と泣いて嫌がるんだけれど、それでも宗方コーチはスパルタ教育を続ける。ひろみはテニスを遊び気分でやりたいだけだったのに、レギュラーに選抜されたせいで、先輩にはいじめられるし、仲間からは浮き上がるし、ぜんぜん愉しくないんです。でも、宗方コーチはそんな事情はおかまいなしに、自分の命を削って、彼女を日本チャンピオンに育て上げる。『あしたのジョー』の丹下段平もそう。飲んだくれの親父が矢吹丈に出会ったことで、酒をやめて夜まで働き出し、世界チャンピオンにするために粉骨砕身する。ジョーが裏切って少年院に入っても、「あしたのために、その一。ジャブはえぐるように打つべし」なんてハガキを送り続ける。ジョーは怒ってハガキをびりびりに破っちゃうんだけど、これは怒るジョーが正しい(笑)。そういう事例からも分かると思うけど、「師弟漫画」に描かれる名コーチは、みんな「余計なお世話」の人なんです。

━━━ しかし「無理やりやらせる」ことには危険もありませんか。スポーツ界では行き過ぎたスパルタ教育の弊害も言われますし、戸塚ヨットスクール事件のような例もあります。

内田 そのさじ加減が難しいんですよね。やり過ぎはよくない。でも、どこまでがやり過ぎで、どこまでが適切なのかなんて、標準的なラインなんか存在しない。スパルタ教育が日本で幅広く取り入れられているのは、経験的にはそれが成功した事例が確かに多いからなんです。僕は前に戸塚ヨットスクールの「サバイバー」の人と会ったことがあるんで、「どうでしたか?」と訊いてみたことがあるんですけれど、意外にも「けっこういい学校だったよ」とお話しされていた(笑)。メディアに大きく取り上げられる前は、けっこうちゃんと運営されていて、実際に自閉症の子たちがみるみる治るということがあったらしいです。

 前に「監督術」というテーマで、韓氏意拳(かんしいけん)の守伸二郎さんと、大学野球の監督をしている高橋佳三さんと、元神戸製鋼ラグビー部の平尾剛さんとディスカッションしたことがあるんです。そのとき「日本の少年スポーツ界では、なぜ子どもたちの人格を全否定して追い込むようなトレーニング法が、野球をはじめどの種目でも見られるのか」ということが話題になった。