「影の総理」野中広務はなぜ権力闘争を挑み続けたのか

強面の政治家が生涯、守り続けたもの
菊池 正史 プロフィール

公明党も容赦なく攻撃

一方で、価値観を共有できない人間に対する野中の攻撃は熾烈を極めた。権力闘争を巡る権謀術数、政敵の急所を突く攻撃は群を抜いて激しかった。

私が野中の存在を知ったのは、今から四半世紀も前、日本テレビ報道局の政治部に配属された直後の1993年秋だった。当時、自民党は野党に転落していた。結党以来、初めてのことだ。

政界の激動の震源となったのは、今は自由党という小政党の共同代表となっている小沢一郎だ。小沢は仲間とともに自民党を離党した。国政では無名だった野中は、小沢との闘いで、一気に表舞台に躍り出た。

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自民党から飛び出した小沢は、「非自民」勢力を結集して細川護熙連立内閣を発足させた。野中は国会で、怒りをむき出しにしてこの政権と闘った。攻撃の矛先は、小沢と二人三脚の関係だった公明党にも向けられた。

1993年10月6日の衆議院予算委員会――。

「公明党は創価学会に会場使用料を払っておられますか」

「私が言いたいのは、組織が許可をし、組織の施設を使い、建物、電話、ファクス、コピー、これらの膨大な経費を、あなたの党は正当な対価を払っておらないということが明らかになったということであります」

「すべて(創価学会の)非課税の資金で賄われておるということでございます。選挙支援のために宗教の(非課税の)施設や資金が使われている」

公明党委員長で、細川政権の総務庁長官だった石田幸四郎に、野中はこうたたみかけた。

当時、創価学会は、今よりもはるかに、異質で不可解な宗教団体というイメージを持たれていたのではないか。「あの人、学会なんだって」と、小声で後ろ指さされる会員も少なくなかったはずだ。

そしてまた、後ろ指をさす人たちが、正面からは何も云々することができないほど、創価学会がタブー視されていたことも確かだろう。

創価学会と公明党が一体であり、細川政権の背後で奇異な宗教集団がうごめいているという印象を国民に刻み込むことができれば、野中にとっては十分だった。

政治の表舞台で、世間のタブーに切りこみ、タレ込みや、闇の情報網までも駆使して敵を執拗に追及する。

ついたあだ名は「政界の狙撃手」「闘将」だった。眼光は鋭く、公式の場で笑顔を見せることはめったにない。体重は90キロを超え、恰幅がいい。

だが、その割には声のトーンが高い。そのアンバランスさが、野中のただならぬ存在感に、さらに異彩を加えていた。

 

初対面はやはり怖かった…

強面のイメージが定着した野中のもとを、私は訪れることになった。1994年6月30日に村山富市連立政権が発足した直後のことだ。

「非自民」政権が倒れて、自民党は連立の形で政権に返り咲く。私は野中が所属する小渕派の担当になったのである。

野中は国会質問の功績などが評価され、自治大臣・国家公安委員長に就任していた。当時、閣僚級の「大物」議員となると、挨拶の時間を取ってもらうだけでも大変だった。

事務所によっては日程担当の秘書が隠然たる力をふるい、議員に会う前に秘書に食い込まなければ前に進まないという、「ひと手間」を要する場合もあった。

「まあ気長に頑張ってみよう」と腹を決めて国会裏にある議員会館の事務所に行くと、秘書はあっさりと、「夜、宿舎に行って直接挨拶してください」と言う。

その日の夜、高輪にあった野中の議員宿舎に向かった。現在の赤坂にある宿舎は高級マンション並みのセキュリティーだが、当時はノーチェックで部屋の前まで行くことができた。窓から部屋の明かりが見えたので、呼び鈴を押した。

しかし、反応がない。ドアノブに手をかけてみると、意外にも開いた。室内にはすでに数人の記者が上がり込んで、いわゆる「夜回り」取材をはじめていた。初めての私はずかずか上がり込むわけにもいかず、「失礼します」と言ってみた。