恩人の墓の前で弔う野中氏

「影の総理」野中広務はなぜ権力闘争を挑み続けたのか

強面の政治家が生涯、守り続けたもの

2018年1月に逝去した政治家・野中広務。政敵と徹底的に闘う強面のイメージが強かった一方で、戦争を憎み平和を愛した政治家でもあった——。
「強いリーダー」がもてはやされる現代にこそ見直すべき彼の「政治哲学」とは? 今の日本には、こういう政治家が求められているのではないか。菊池正史『「影の総理」と呼ばれた男 野中広務 権力闘争の論理』(講談社現代新書)より。

戦死した父親を訪ねて

今から16年前の2003(平成15)年2月9日、野中広務は太平洋戦争激戦の地、レイテ島ダニエル・Z・ロマオルデス空港に降り立った。傍らには古賀誠の姿もあった。森喜朗政権下、野中の後を継いで自民党の幹事長を務め、肝胆相照らす仲である。

空は青く澄み渡り、強い日差しが容赦なく二人の顔を突き刺す。2月とはいえ、熱帯ならではの蒸し暑さがまとわりついた。

チャーターしたバスにともに乗り込み、街中から1時間ほど走った山間部でバスを降りた。さらに細い山道を歩くと、日頃人が足を踏み入れることのない森がどこまでも奥深く広がっている。

この地で、古賀の父・辰一は戦死した。1944(昭和19)年10月、ダグラス・マッカーサー率いるアメリカ軍は、圧倒的な火力と物量をもって、日本軍が守備するレイテ島に上陸侵攻作戦を開始。およそ2ヵ月の戦闘で、日本軍はほぼ全滅した。

戦後58年が過ぎようとしていたが、古賀が父の死地へと慰霊の旅をするのは初めてのことだった。

2人は、その森の中に平らな場所を見つけ、簡素な祭壇をつくった。古賀の母親の遺影と、この旅に同行することのできなかった姉の写真を置いた。そして辰一が好きだった煙草と地元・福岡の日本酒や米、野菜を供えた。

父親が戦死したとき、古賀はわずか4歳だった。ぬくもりも、面影すらもわからない。

記憶には存在しない父親の魂に直面したとき、自分はどんな思いを抱くのだろうか、と迷っているうちに、長い年月が過ぎていった。

そんな古賀の背中を押したのが野中だった。

その経緯を二人がそろって明かしたのが、2017年8月15日に放送されたBS日テレの『深層NEWS』だった。奇しくも、これが野中の最後のテレビ出演となった。

 

「お父さんの涙雨だ」

収録は京都府伏見区にある聖母女学院で行われた。銅葺きの屋根、煉瓦造りという古典的建築の本館校舎は、かつては陸軍第16師団司令部であり、戦後に払い下げられたものだ。レイテ島の守備隊には、この師団からも1万3000名の将兵が派遣されていた。

古賀の来歴にも深く関わる戦争の記憶を宿した場所で、野中はこう話し始めた。

「私は年2回程度、後援会と一緒に、戦地への慰霊の旅をしてきました。だからフィリピンも何回か行きました。古賀さんを誘ったのも、そういう経緯があったからなんです」

古賀は、日本遺族会の会長を務めていた。その活動のなかには、戦没者遺児が父親の戦死した土地を訪ねる事業もあったが、先述したように古賀は参加してこなかった。

「父親が亡くなった戦地に行って、自分でどのように心を整理できるのか。自分の中に心を打つものがあるのか。色々なことを考えると、むしろ怖さみたいなものがありましてね。その話をした時、野中さんが、何で行かないんだ、と。それは親不孝だ。お父さんの魂がまだ帰ってくることができずにいるじゃないか。そんな勇気もなくて、政治家が務まるのか。一人で行くことをためらうなら、俺もついて行くから、と言ってくださった」

辰一が戦い死んだ地で二人が手を合わせた直後、それまで晴れ渡っていた空が急に雲に覆われ、スコールが二人の身体に打ちつけた。

「お父さんの涙雨だ。やっと迎えに来てくれたかと言っている」

野中に、そう声をかけられ、古賀は涙をこらえることができなかった。

「みっともないんで、一生懸命、泣かずに我慢していたんですけど、野中さんにそう言われると、こらえきれなかった」

戦争の記憶を語り継ぐこと。そして、二度と戦争をしない、させない政治を行うこと。これは野中が生涯貫き通した信念だった。そして野中は、戦争で傷つき、犠牲となった人々への思いを忘れることは片時もなかった。