クロード・モネ《ラ・ジャポネーズ》1875-76年、ボストン美術館

西洋人を心酔させた19世紀の「日本ブーム」=ジャポニスムとは何か

流行としての「日本」、その起源を探る

「日本」の流行

日本のアニメ、マンガ、ゲーム、ファッション、コスプレ、カラオケ、ラーメンなどが海外でブームになったのは、いつ頃からだっただろうか。それらは合流して、ある時からネオ・ジャポニスムとでも呼べる流行になっている。

私は今から15年前にアテネの公園で、風船売りの男がおびただしい数のピカチュウの風船を、ミッキー、ミニーのものと一緒に頭上に浮かせているのを見て、ハッとしたのを覚えている。

思い出してみると、それよりさらに10年前には、すでにこの流行のきざしがあった。ちょうど日本でバブルがはじけ、日本の工業製品の洪水のごとき輸出に陰りが見えてきたのと同じ頃にそれは始まり、海外における日本のイメージを変えていったように思える。

このネオ・ジャポニスムは、現在いよいよ盛り上がっているようだが、あくまでも海外の人たちの間での流行なので、私たち日本に住む者は、ごく断片的に目にするだけだ。しかし仮に、海外でこのフィーバーの中にいて、たとえば日本のマンガに夢中になっている者でも、その全体は見えていない。流行とはそのようなものなのだ。

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さて、現代のネオ・ジャポニスムはともかく、19世紀後半のおおもとのジャポニスムは、終息から約100年を経過して、さすがに全貌を見渡すことができるようになってきた。

ジャポニスムというと、日本の浮世絵がモネ、ゴッホ、ロートレックなどに与えた影響を思い出す人が多いのだが、彼らの作品はジャポニスムのランドマーク、つまりいわば山の頂上の目立つあたりでしかない。

どうやらこの山の裾野には、多種の、膨大な数の制作物がある。私が『ジャポニスム 流行としての「日本」』(講談社現代新書)でめざしたことのひとつは、その裾野までを視野に入れてジャポニスムをとらえ直すことだった。

もちろん、19世紀後半の当時の人たちにもまた、ジャポニスムの全貌が見えていたわけではない。彼らが毎日のように目にしていたのは、扇子、団扇、屛風、着物といったものだった。

たとえば扇子、団扇だけとっても、明治5年(1872年)の一年間に、前者が79万本、後者が98万本も日本から輸出された。その数量は以後も年々ハイピッチで増加していったのであり、それらはピカチュウの風船の比でなく西洋人の生活の中に入り込んでいった。アカデミックな画家、マイナーな画家を含め、多くの芸術家が何らかの形で日本のものを取り入れていた。

そして逆に、私たちから見えるジャポニスムの山頂部分、すなわちモネ、ゴッホなどは、当時の人たちの視野にはまったく入っていなかった。というのは、彼ら前衛がフランスで高い評価を確立するのは、ジャポニスムが終息に向かいつつある20世紀初頭になってからだったからだ。

ジャポニスムの見え方は、現在と当時とでは、およそ違うものだったのである。

ジャポニスムとは、扇子、屛風といった日本の個々のものの流行である以上に、「日本」の流行だった。たとえば、実際には日本とまったく関係のないものが、「(歯痛に効く)日本の滴」「日本風サラダ」などと呼ばれた。

あの時代、「日本の」という形容詞には、何か風変わりで目新しく、彩り豊かでかわいいものというニュアンスがこめられていたと見られる。