ある《民主的な》辞典について――フローベール『紋切型辞典』を読む

「ひとたび読めば、口が利けなくなる」
蓮實 重彥 プロフィール

「新たな項目」は付加され続ける……

その構想が、ひとまず立憲的な民主主義を踏みにじるかたちでナポレオンⅢ世が皇帝の座についた第二帝政期に萌していたことには、いささかの矛盾も存在していない。1848年に成立した二月革命とそれが導入した第二共和制が、ルイ・ナポレオンに権力を集中させることになったからである。

実際、共和制であろうが帝政であろうが、権力体制とはいっさい無縁に、着飾った男女どもは、あいもかわらず「食べると危険」と暢気に口にしながら、アイスクリームを賞味し続けている。

誰に促されたのでもないのに、知らぬ間に思わず口にしてしまう言葉の民主的な勝利。もちろんフローベールはその勝利を無邪気に肯定しているわけではない。

「ひとたびこれを読んでしまうや、ここにある文句を自分もうっかり洩らしてしまいはせぬかと怖ろしくなり、誰ももう口がきけなくなる」ことを目ざしていると彼も述べているが、『物語批判序説』は、無意識かつ執拗に反復される言葉を「物語」ととらえ、それを批判の対象とするものである。

晩年のフローベールは、『紋切型辞典』を遺作となった『ブヴァールとペキュシェ』の第二部として発表する構想を抱いていたが、彼自身の死によってこれは未刊に終わった。現在読めるのは、残されていた草稿を解読したものだが、作者の校閲をえたものではない。

だが、『物語批判序説』の第二部は、マルセル・プルーストからジャン=ポール・サルトルをへてロラン・バルトにいたるまで、20世紀を代表する作家たちが、「終焉」という事態をめぐって、『紋切型辞典』に新たな項目をはてしもなく付加させているので、その解読にあてられる。

おそらく、平成末期の日本でも、その新たな項目はあきもせず書きつがれているだろうが、それを読みとることは来たるべき読者の手に委ねられる。