「開成をつくった男」の人生から浮かび上がる「咸臨丸神話」の誤信

創設者・佐野鼎の生涯を辿るとともに
柳原 三佳 プロフィール

アメリカの新聞にも残る佐野鼎の名声

歴史の隅に埋もれかけていた数々の出来事を掘り起していく中で驚かされたのは、幕末に生きた鼎たち洋学者らの知識レベルの高さでした。オランダ語を学んでいた鼎たちはいち早く英語の必要性に気づき、英和辞典や参考書など存在しない中で、短期間で英語をマスターしていきます。

実際に佐野鼎の英語の進歩は、アメリカでも特に目を引いたらしく、1860年6月25日付の『ニューヨークタイムズ』紙には、「ニューヨークにおける日本人」と題して次のように紹介されています。

 

『サノカナエは役人の中で最も聡明な人物の一人で、英語に多大な進歩を示し、情報を得ることにたいそう興味を持っている。彼は土曜日に手話術用のアルファベットを習ったが、彼によれば手話法はまだ日本では知られていないという。彼はガヴァナンス・アイランド(ニューヨーク湾にある要塞)を切に訪れたがっており、また戦術に関するたくさんの書物を探し求めていた。

サノは同じような知性をもった5~6人の随行員とともに、異国の地にあって』自分からは何もしようとしない大使を山ほど集めるよりも、日本人たちに我が国に関するはるかに正しい知識を与えてくれるであろう』(訳文「佐野鼎と共立学校」より抜粋)

万延元年遣米使節の旅を記録した木村鉄太の『訪米記』に収録されていたアメリカの新聞のイラスト

佐野鼎が遺した「人材」という遺産

維新後、明治新政府での官職を捨て、東京で学校を立ち上げた佐野鼎は、わずか6年後、49歳という若さでこの世を去ります。東京公文書館で彼の死亡診断書の原本を発見したときには、何とも言えない気持ちになりました。

妻と二人の子ども、そして創立して間もない共立学校の多くの生徒を残したまま、志半ばでこの世を去らねばならなかった鼎は、どれほど無念だったことでしょう。伝染病であるコレラが死因だったため、身の回りの持ち物は焼却されたという説もあり、佐野鼎の人となりを伝える史料がきわめて少ないことにもつながっています。

しかし、彼が撒いた『教育』の種は、145年経った現在も、「開成学園」という名門校の中にたしかに息づき、多くの逸材を生み続けています。

加賀藩の友人に宛てた手紙で、佐野鼎は、このような言葉を記しています。

「人を仕立てることが肝要にございます」

砲術、つまり軍事の才能をもって取り立てられた佐野鼎は、最終的には人材の育成こそ、欧米列強の圧力が強まる日本が生き残る道だと見据えました。

来年には平成が終わり、新しい元号の時代が到来します。終わりゆく平成の冬、これまで光の当てられてこなかった幕末の志士の先見について、現在の日本と重ね合わせながら、多くの読者に知っていただければ嬉しく思います。

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