「開成をつくった男」の人生から浮かび上がる「咸臨丸神話」の誤信

創設者・佐野鼎の生涯を辿るとともに
柳原 三佳 プロフィール

教科書によって“ねつ造”された歴史

上記の問いに対する解を考えてみます。一例を挙げますと、万延元年遣米使節のナンバー3で、佐野鼎が尊敬する小栗上野介という幕臣がいます。小栗は使節団の中心的な役割を担い、日米の貨幣交換率の不公平を現地の造幣局で是正し、帰国後、アメリカの造船所を参考にして横須賀製鉄所を造るなど、多大な功績を残しています。ところが、遣米使節について語られる場合、小栗ではなく、必ずと言っていいほど、使節ではない「勝海舟」と「咸臨丸」がセットで登場するのはなぜなのか……。

小栗の菩提寺である東善寺(群馬県)の住職、村上泰賢氏は、過去の教科書の記述を徹底的に調査したうえ(http://tozenzi.cside.com/kanrinnmaru-sinwa.html)で、こう断じます。

「じつは、日本人は大正7年以来、小学校の国定修身教科書で、勝海舟と咸臨丸の誇張脚色された『お話』だけを教えられて、戦後もそれが歴史だと錯覚してきたからなのです」

 

そして、このような問題提起を行っています。

「日本人が万延元年遣米使節の小栗上野介の業績を正しく理解するには、今の歴史教科書及び副読本から、『遣米使節』の説明に使われている咸臨丸の絵をはずす必要があるでしょう。咸臨丸には幕府の遣米使節は一人も乗っていなかったのですから」

私は、大きな衝撃を受けました。たしかに戦前の修身の教科書を見ると、勝海舟が賢人として登場していますし、最近の歴史教科書にも、遣米使節のくだりでは、いまだに咸臨丸が登場しています。思い返せば祖父も、「佐野鼎は咸臨丸で海を渡った」と私に伝えました。私もそうだと思い込んでいました。

驚いたことに、日米の外交に詳しい人でさえ、「日本初の遣米使節は咸臨丸でアメリカに渡った」と発言したことがあります。明らかな事実誤認であり、それを平然と語り継ぐことは、歴史を捻じ曲げていくことに他なりません。

外交使節団で佐野鼎とともに訪米した木村鉄太の写生。初めて見た蒸気機関車

幕末に日本のサムライたちがアメリカの蒸気船に乗り、善意のアメリカ人から英語を学び、心の交流を深めながら共に航海をしたという事実。そして、そのときの貴重な学びが脈々と生き続け、明治の世で教育の礎を築いたという真実を、佐野鼎の日記を入手した者の責任として正しく伝えていきたい---。そんな思いが、今回の執筆の強い後押しになりました。

日本と世界各地に残された足跡を追って

佐野鼎に関する史料や論文の収集をするかたわら、時間を見つけては、彼の足跡を辿る取材旅行に出かけました。そして、彼が藩を超えて親交を深めてきたさまざまな人物の生きざまや息遣いにも触れることができました。

本書には佐野たち使節団が海外で出会った日本人漂流民のエピソードが登場しますが、その漂流民の娘の墓碑があるということでシンガポールを訪れました。フォートカニングパークという広大な公園の中から、ようやく目的の墓碑を探し当てたのはよいのですが、事前の調査では「1852年」とされていた没年が、白いペンキで「1862年」とはっきり書かれているではありませんか。そんなはずはないと見直してみても、間違いなく「1862年」です。

文久遣欧使節の航海の途中、シンガポールで佐野鼎が出会った日本人漂流民・音吉の娘の墓碑。筆者が訪れたとき没年は1862年と記されていたが、これは修復のときのペイントミスで、正しくは1852年だった

そこで帰国後、改めて過去の別の文献を調査し直しました。その結果、なんと、今から10年以上前、墓碑の修復時に、「5」という文字を「6」と誤認し、白いペンキで間違えて線を足してしまったということがわかったのです。墓碑の表記は「1852年」で間違いなかったのです。

もし、あのとき、安易にこの目で確認した「1862年」を信じてしまっていたら、時系列に狂いが生じるため、小説の中に『佐野鼎と漂流民の愛娘たちのエピソード』を挿入することはできなかったでしょう。歴史の調査の難しさを実感させられた体験のひとつでした。