「開成をつくった男」の人生から浮かび上がる「咸臨丸神話」の誤信

創設者・佐野鼎の生涯を辿るとともに
柳原 三佳 プロフィール

日本人が信じ込んできた「咸臨丸神話」

幕末から明治へ---。激動のこの時代については、私が指摘するまでもなく、さまざまな人物の生きざまを通して研究され、歴史書だけではなく小説というかたちでも、多く描かれてきました。しかし、私の中には、ただ佐野鼎の評伝を記すことだけでなく、もうひとつ、どうしても伝えておきたい大切な目的がありました。

取材を進める中で疑問に感じたのは、日本初の正式な外交使節団一行の功績が評価されるどころか、ほとんど表にすら出ていないという事実です。

佐野鼎が従者という立場で随行した外交使節団による渡航は、1860年の万延元年遣米使節と、1862年の文久遣欧使節の2回に及びますが、このときのメンバーや外交に関するエピソードは歴史教科書で学んだ記憶がほとんどありません。

万延元年遣米使節の旅を記録した木村鉄太の『訪米記』に収録されていたアメリカの新聞のイラスト

ちなみに、伊藤博文や井上薫、山尾庸三ら、長州五傑(長州ファイブ)とも呼ばれている長州藩の若者五人が、幕末にロンドンに渡ったことはよく知られており、映画にもなっていますが、それは1863年のことです。実際には彼らが渡欧する3年も前に佐野鼎たちはアメリカの首都・ワシントンをはじめ主要都市を歴訪した末に世界を一周しています。さらに言えば、長州ファイブが洋行する前年に、ヨーロッパ諸国をくまなく回っているのです。

これまでの歴史教育を受けてきた人たち、それは、いま現役で学んでいる中学生、高校生であっても同じことでしょうが、「日本で初めてアメリカへ行った遣米使節と船の名は?」と聞かれたら、おそらく大半の人が、「それは勝海舟と咸臨丸でしょう」と答えるかと思います。

 

咸臨丸は1860年、日本の船として初めて太平洋横断を成し遂げました。しかし、佐野鼎を含む幕府の正式な使節団は、咸臨丸には乗っていませんでした。アメリカ側が江戸に差し向けた軍艦「ポーハタン号」で海を渡ったのです。ほんの少し前まで、「黒船」と恐れられていた巨大な蒸気船です。咸臨丸は、あくまでも随行船という扱いで、正式な使節が乗っていたわけではありませんでした。

しかも、咸臨丸はサンフランシスコに到着した後、そのまま江戸に引き返しています。つまり、咸臨丸に乗っていた勝海舟や福沢諭吉は、ワシントンやニューヨークなどアメリカの東側には到達しておらず、当時のアメリカの第15代大統領、ジェームズ・ブキャナンにも謁見していないのです。

なぜ、日本の歴史教科書や多くの書籍で、佐野鼎が随員として加わった遣米使節団が無視され、まるで「咸臨丸」が幕府の使節団を乗せて、条約の批准をおこなったかのように錯覚させるような教育がなされてきたのでしょうか?

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