新雑誌のタイトルめぐり、命をかけて衝突した野間清治と男たち

「講談」か「快談」か、それが問題だ
魚住 昭 プロフィール

村田から見れば、清治は出版の素人である。『雄弁』の編集経験があるとはいえ、営業や広告や印刷の実務は何も知らない。それで新雑誌を出そうというのだから滅茶苦茶な話である。

もう付き合いきれないというのが村田の本音だったろう。それに、大日本図書側が期待していた法科の教授たちとのパイプ作りが『雄弁』を発行してもうまくいかなかったらしい。

しかし、当の清治は村田の提案に「無闇に喜びきって、宝物でも頂戴したような調子で『雄弁』を頂戴し」(口述録より)た。もちろん新雑誌発行を止めるつもりは毛頭ない。

講談か、快談かで衝突!

清治が『雄弁』発行権を大日本図書から譲り受けるのは明治44年11月発売号からと決まった。同時に新雑誌も創刊することにした。ところが、大沢一六や寺田四郎ら法科の学生たちが「講談や浪花節といった低級な雑誌を大日本雄弁会から出すのは大反対だ」と言い出した。

「どうしましょうね、望月君」

と、清治が困り顔で言うと、望月が答えた。

「雄弁会から出さなければいいでしょう」

「それは、そうだ!」と清治が応じ、大日本雄弁会とは別の会社を新たにつくることにした。

やがて、望月の奔走で講談や浪花節の速記原稿、それに名士の訪問記事などが集まった。清治は「編集会議を開こう。伊藤君を呼んでくれ」と、望月に声をかけた。

ところが、伊藤は国民新聞社の仕事があって抜けられない。仕方がないから、清治と2人だけの編集会議が始まった。問題は雑誌のタイトルだった。望月と伊藤は、講談を中心にした雑誌をイメージしていたから「講談倶楽部」と名づけることにしていた。

だが、清治が「それではまずい」と異を唱えた。

「雑誌のなかには浪花節もあるし、将来は落語も載るだろうし、いろいろなものが載る。そういう雑誌に講談という字をかぶせて、ひとまとめにするのは無理だ。快談(かいだん)倶楽部にしましょう。それなら何だって入る」

望月は猛反発した。

「待って下さい! それじゃ話がだいぶ違う。伊藤君や私が狙ったのはそんなものじゃない。講談を主にした面白味を狙っておるのだから、それを取ってしまったのでは話がちがう」

 

原稿を持って線路に飛び込んでしまおう

雑誌のタイトルを何にするかは、その雑誌の死活にかかわる重大事である。いい加減なところで妥協することはできない。清治と望月の主張は平行線をたどった。いくら話しても解決がつきそうになかった。

「それじゃ、野間さん、私はお別れするよりしょうがない」

と、望月が最後通牒を発し、清治がそれに応じた。

「君がお別れするというなら、やむを得んですな」