全米図書賞を受賞した多和田葉子氏(PHOTO/ 嶋田礼奈)

日本語の未知の力を教えてくれる…多和田葉子の翻訳作品の魅力

多和田葉子・全米図書賞受賞の理由③
今年で第69回を迎える、アメリカで最も権威のある文学賞である全米図書賞が11月14日(現地時間)に発表され、多和田葉子さんの小説『献灯使』の英語版 ”The Emissary” が翻訳文学部門を受賞しました。1982年に『万葉集』と樋口一葉の作品集が受賞しているため、今回の受賞は、日本の文学作品として36年ぶりの受賞となります。とはいえ、日本人には馴染みの薄い全米図書賞。『献灯使』という小説の何が評価され、受賞につながったのか。英米文学の第一人者である三人に寄稿していただきました。

パフォームする言葉たち

多和田葉子は、書かれた文字を読むことでしか行くことのできない世界に読者を連れていくことにかけては唯一無二の作家だ。作品を読むと、自分が習得していると思い込んでいる日本語にどれほど未知の力があるかをいつも思い知らされる。

『エクソフォニー 母語の外へ出る旅』のなかに深く胸を打たれたエピソードがある。「美」という漢字の成り立ちについて思いを巡らす多和田は、受験参考書で「中国でも砂漠地帯の人たちの間で生まれた字で、彼らにとって羊が大きいということは素晴らしいことだったので、羊に大きいと書いて美なのです」という説明を読んで以来、食料品店で大きな羊の肉の塊を見る度に「ああ、あれが美なのだ」と思ってしまうという。通常私たちは外界の事象に美という言葉をあてがうが、その順序を逆転させて、文字が現実世界の思いも掛けないところに新たな美を創造していくこともできるのだ。それは新鮮な驚きだった。

多和田は翻訳したカフカ『変身』の解説で、グレゴール・ザムザを「言語だけに可能なやり方で映像的なのであって、映像が先にあってそれを言語で説明しているわけではない」と評しカフカ文学の魅力を伝えているが、前述のエピソードが示すように、この評言は多和田自身の作品にも当てはまる。だがカフカと多和田の違いは、多和田の場合、その映像がより演劇に近い点にある。演劇において、舞台上の俳優は役になりきり物語世界を表現するが、同時にそれが生身の俳優の演技であることを観客につねに自覚させる。

多和田の小説では、それと同様のことが言語という俳優(アクター)によって行われているように思える。作品ごとに程度の違いはあるが、言語は物語を語りながら生々しくその身体性を主張し、さながらブレヒトの叙事演劇のように一方で物語が読者を没入に誘いつつ、言語は読んでいるという行為への自覚を促す。そのようにして物語と言語とが交渉する場=読む人のいまここに、多和田の小説は立体的に立ち上がる。

もちろんこうした特質は、多和田が戯曲を書き定期的にパフォーマンス公演を行うなど舞台芸術に深い関心を寄せていることとも無縁ではない。だがその根本はやはり、言語のもつ固有の身体性への並外れた愛情に由来するのだと思う。多和田の作品では、小説を記述する漢字やひらがなが、そこで描かれる人物と対等の身体を持ち等しく扱われる。

『飛魂』には、ヒロインの梨水が文字と性交するくだりがある。旅の男の下腹部から伸びる植物的な二本の管に夜ごと身体を貫かれていた梨水は、やがてそれが虎という字が人に憑き生き物の姿で繰り返し現われたもので、二本の管は「『虎』という字の下半分に生えた二本の線」だったことを知る。

あるいは「海に落とした名前」で飛行機事故に遭い記憶を無くしたヒロインは、文字を人に食らわせて生き延びる。彼女は即興の漫談を披露して追手から逃げ切ろうとするが、そのパフォーマンスは「晩餐会を開き、舌鼓を打つ客たちを笑わせ続け」、その笑いの震えをふぐの毒のようにして彼らの身体を痺れさせるものと描写される。

そしてこの二作がいずれも、朗読や漫談という身体的なパフォーマンスに重点を置いているのは偶然ではないだろう。両作ともそのパフォーマンスが言葉の意味や分節を脱臼し、その逸脱やズレのなかに真理や生存の鍵が見出されるという構造を有し、そこでさまざまな言葉の音やかたちが偶発的に出逢うとき、その言葉の意味をしのぐ力が生み出されるのである。