「スピリチュアル女子は守られるべきか否か」論争に思うこと

「分断」を避けすぎるリスクと向き合う
林 智裕 プロフィール

「スピリチュアル」が個人を優しく幸せにするような、あるいは日常を彩り豊かにしてくれる存在に留まっているならば、全く問題はありません。極端なスピリチュアルを批判する人も、そう考えている人が大多数ではないでしょうか。

問題はあくまでも、人々の祈りや祝福の文化であるはずだった「スピリチュアル」が、現実から離れた「独自の信念」──あるいは「信仰」によって、たとえば藁をも掴む思いの人々の恐怖につけ込み、無用な不安や苦しみ、リスクを与え、かけがえのない時間や財産、ときには命すら奪う存在となり、本人のみならず周囲の人たちや社会までも巻き込んで不幸を生み出す「呪い」へと変質しまった場合です。

そうした「呪い」と戦うことを措いて、「分断」を過剰に問題視して新たな対立を生むことは、実際的なリスクを矮小化させ、不幸を温存するばかりか拡大することにつながるのではないでしょうか。私たちが批判しているのはスピリチュアルから変質した「呪い」であって、スピリチュアルの全てを否定しているわけではないにもかかわらず……。

 

溺れる人に必要なのは「藁」ではない

7年以上続いてきた福島への「放射能デマ」に対する批判にも、同じような反応がありました。

単に事実を示して「放射能デマ」を否定するだけでも、「避難者を分断し、政府や東電、原発推進派を利する行為だ」という理由で叩かれました。私たちが批判しているのは、福島に暮らす人たちを脅かすデマや差別であって、個々人の避難の判断や、反原発の思想そのものを否定しているわけではないのに、です。

一方で、今も一部には、放射能に対する不安の解消や対話の機会がセンセーショナリズムの中で妨げられてきたことにより、「不安を表明する言葉を奪われた」と感じている方もいます。そうした方々は、放射能デマや不安を拡散する人物や言説にむしろ安心・共感し、「やっと私たちの気持ちを取り上げてくれた」として、救いを感じることもあるようです。しかしそれは、長期的には、人と社会を不安の解消や問題解決から遠ざけるものです。

もちろん、「独自の信念」に取り込まれてしまった人を解放するためには、相手のことを決して否定せず、揶揄せず、途方もない時間をかけて根気強く向き合う必要があることは、言うまでもありません。

しかし、それはあくまでも、そのような「個人」を目の前にしたときの話です。社会全体の水準では、そうした「呪い」に取り込まれる人がこれ以上増えないように、また被害に遭った人やその周囲の人たちを護るためにも、「呪い」そのものをむしろ分断し、社会から隔離する必要すらあるでしょう。

なにより大事なのは、そうやって「溺れる人が藁をも掴む権利」自体を護ろうとするよりも、藁の代わりに掴める別の「希望」を、拠り所を、一つでも多く社会に増やしていくことなのです。

Photo by iStock

それはたとえば、医療の発展や技術の向上はもちろん、より心のケアを受けやすい環境整備、あらゆる暴力や人権侵害、格差などを減らしていく努力などが挙げられます。

それらを妨げ不幸を増やす「藁」と、それを支えるデマやフェイクニュースそのものには毅然として対峙する一方で、「藁」を掴まされてしまった人がそれに気付き、戻ってきやすい社会を目指す必要もあるでしょう。

「事実に対して誠実であること」、「心の拠り所となるものを増やし続けること」、そのどちらが欠けてもいけません。私たちが「分断」を超えてでも取り組んでいかなければならないのは、実はそうしたことではないでしょうか。

最後に、震災後から福島に心を寄せ、原発をめぐるイデオロギー対立を研究している、山梨学院大学の小菅信子教授が著書で記した言葉を引用します。この問題の本質は、この言葉に集約されるのではないか──私は、そう考えます。

「デマは人を殺す。暴言は人を萎縮させる。藁にもすがりたい人を、藁なんかにすがらせてはいけない」 (小菅信子『放射能とナショナリズム』より )