多和田葉子の書くものには詩がある。小説だろうがエッセイだろうがそうだ。かつて言語学者のロマーン・ヤコブソンは言った。言語はメタファー(君はバラだ、みたいなやつ。遠いものが似ているからつながる)、とメトニミー(赤ずきんちゃん、みたいなやつ。女の子がずきんを被っているから赤ずきんちゃん。近くにあるからつながる。別に、ずきんそのものが主人公なわけではない)という二つの原理で構成されている、と。その両者の能力をフルに活用する試みが詩だ。
だからこそ、音が似ていれば限りなく横滑りしていく。『献灯使』ならば、「学ぶ会とか話す会とかはすかいとか破壊とか」いう会合が出てくるし、鞠華は「他家の子学院」の院長で、依存症患者の飛藻は「イゾンビ」だ。彼が得意なのは「ほっとしてチョコレートを飲む」ことである。一つの言葉が音の似ている別の言葉を呼び込み、意味の網の目が予想外の方向につながる。作品の世界も四方八方に伸びていく。
その網の目は日本語の中だけに止まらない。『雲をつかむ話』でドイツ人のベニータは紅田という漢字の名前を獲得し、意味に引っ張られるように血にまみれる。ドイツ語を直訳する形で語られる日本語「春が来ると、出たいです」は主語を失っているがゆえに、あらゆるものの生命のほとばしりを呼び込む。「舌を熱くして語った」という比喩もいい。メタファーとメトニミーという、物事をつなぐ二つの原理が、言語や共同体の境界を越えてつながり、新鮮な世界を形作る。だから、現代日本語に閉じこめられている僕たちは、多和田葉子の文章を読んでいるとハッとする。
けれどもこれは、多和田葉子が言葉の遊びに閉じこもっているということを意味しない。真に言葉で遊ぶ人は、社会と真っ向からぶつかることになるからだ。社会とはどんな原理で作られているのか。言語や共同体に境界を作ることで得をしている人がいる。世界を覆う権力など成り立ち得ないとしたら、権力者は自分の領域を囲い込むことでしか力を維持できない。しかも、効率や利益を最大限にするには、内部を均質化した方が都合がよい。
だから、グローバル資本主義の要請に従えば世界はシンプルな英語だけになるのが望ましいし、共同体主義者の野望に沿えば、内部は均質で純粋な言葉で満たされているに越したことはない。そして英語学習の強制と美しい日本語への回帰が同時に叫ばれることになる。一見対極的ではあるが、平準化への圧力という意味では同じことだ。