ありふれた「珈琲屋」の風景は世界に類を見ない日本独自の文化だった

「コーヒーの日本史」の謎が解けた!
旦部 幸博 プロフィール

フランスのカフェ事情に触発されて始まった1期や3期と異なり、第2期は極めて「内向き」のブームだった。まず、発端になったのが国内景気の低迷だ。いざなぎ景気が終わった70年代、雇用情勢の悪化から「脱サラ」組の人々が大量発生。彼らが個人開業に乗り出したことで喫茶店が急増した。

このときステレオタイプになったのは、戦前の日本で生まれ、戦後に再興していた(普通)喫茶店や純喫茶であった。しかし喫茶店飽和の時代に突入して、他店との差別化が重要となり、一部の喫茶店が「コーヒーのおいしさ」で勝負するようになったのである。

この当時、原材料である生豆は、日本の食糧管理制度に似た「国際コーヒー協定(1962〜)」で取引量や価格が統制され、どの生産国でも品質は二の次の、大量生産が行われていた。ただし、ここからアメリカと日本で事情の違いが生まれてくる。

アメリカは中南米の産地と地続きであることに加えて、いくつもの国の農園を巡って生豆を買い付けるコーヒー専門の仲買人が戦前から活躍していた。彼らが、国際取引される量産品(コモディティ)よりも高品質な生豆をアピールしたのが、アメリカのスペシャルティコーヒーやセカンドウェーブの始まりだ。

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一方、日本は産地から遠くて船での大量輸入に頼らざるを得ず、そもそも「総合商社」が国ごとの全産品をまとめて扱う商慣習の都合から、そのなかの一商品に過ぎないコーヒー生豆の品質は、どうしても横並びにならざるを得なかった。

このため、おいしさでアピールしようとした個人経営の喫茶店が、各々に抽出や焙煎の職人技を磨く方向に向かったのだ。

 

すべてが第3期カフェブームに溶け込む

第2期ブーム時に広がりをみせた「職人気質のコーヒー専門店」。それは、日本のコーヒー史において、酒色を排したが職人的とは言い難い「純喫茶」と、自ら焙煎まで行うに至った「自家焙煎店」の過渡期に位置し、両者とそれぞれ重なる部分を持つ、包括的なグループだ。

主張も目指すところも異なる個人店の集まりで、決して一枚板ではなかったが、彼らが経験から磨き上げた抽出・焙煎の技術は世界に類を見ない。

それにより日本のコーヒーは、ある意味「ガラパゴス的」な進化を遂げ、コクのある深煎りネルドリップにアイスコーヒー、水出しコーヒーなど、独自のコーヒー文化を築き上げ、「こだわりの世界」を深めていったのだ。

(ただし一方では、そのことが苦め濃いめのコーヒーが苦手な人や、気軽に楽しみたい人たちからは敬遠され、第3期のカフェブームやスターバックスなどへの追い風になったともいえるが)

惜しむらくは、70〜80年代の日本のコーヒー専門店の真価は、世間一般に認知されているとは思いがたい。日本人にとっては、あまりに身近で「当たり前」の存在すぎるし、海外に上手く紹介される機会にも恵まれなかったためだ。

90年代以降、日本独自のコーヒー文化も徐々に意識されるようにはなってきた。もしも、サードウェーブとかスペシャルティみたいな如何にもキャッチーな名前があったら、もっと上手に広まるだろうとは思うが、あいにくそんなフレーズに心当たりがない。

何のひねりもない名前だが、当事者たる喫茶店主たちの一部が自称するのに倣って「珈琲屋」と呼ぶのが、いちばんしっくりくる。何よりそれは文字通り、日本の食文化の中において、寿司屋や蕎麦屋、天ぷら屋と同様、おいしいコーヒーを作るための技を身につけた「業種」であることを示している。

「珈琲屋」は決して、過去の日本だけのものではない。アメリカでもサードウェーブ以降になって、アメリカなりの「珈琲屋」――エスプレッソの抽出技術を磨く小さな店のバリスタたちや、フレンチプレスやサイフォン、ポワオーバー(ドリップ)、水出し抽出などに積極的に取り組むコーヒー店など――が現れた。

そして日本でも90年代以降、高品質な生豆の入手が容易になり、アメリカの新潮流を受け入れる人、日本独自の職人技を受け継ぐ人、それらをハイブリッドさせながら自分のスタイルを生み出そうとする人など、それらすべてが第3期カフェブームに溶け込み、今もなお進化しつづけている。

コーヒーの多様性、可能性が、かつてないかたちで花開く未来が、一人の「コーヒーおたく」として楽しみでならない。

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