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ありふれた「珈琲屋」の風景は世界に類を見ない日本独自の文化だった

「コーヒーの日本史」の謎が解けた!
今年、「商品作物としてのコーヒーノキの伝播と消費国におけるコーヒー飲用の歴史を、世界的規模で通観した力作」として、『珈琲の世界史』(講談社現代新書)が、第9回辻静雄食文化賞を受賞した。その著者・旦部幸博氏が、「コーヒーの日本史」の面白さに迫る。

ありふれた「珈琲屋」の風景

美味しいという噂を聞きつけて、足を伸ばしたコーヒー専門店。少し緊張した面持ちで扉をくぐってカウンター席に腰掛け、メニューを眺めて悩むことしばし、「マンデリンを」と注文する。

何となくやり遂げた気持ちになりながら、カウンターの奥に目をやると、コーヒーサーバーの上にセットされたネル(布袋)は、使い込まれたコーヒー色。豆を挽くミルの音。

マスターが自然な所作で、ドリップポットから銀糸のように湯を注ぎはじめる……

そんな、決して珍しくはない、ありふれた「珈琲屋」の風景。じつは、これが世界に類を見ない日本独自の文化だったことを、あなたはご存知だろうか?

第9回 辻静雄食文化小贈賞式にて旦部氏が挨拶する

コーヒーは15世紀にアラビア半島南端のイエメンで考案され、その後またたく間にイスラーム世界全域に広まり、16〜17世紀にはヨーロッパに伝わった。

それとともにトルコのカフェハネ、イギリスのコーヒーハウス、フランスのカフェなど、コーヒーを飲むための店が各地に生まれて爆発的に流行し、またたく間に社会的な飲み物として広まった。

ただし、そうした店に集う人々の目的が、コーヒーを飲むことだったのかというと、必ずしもそうではない。コーヒーはむしろオマケみたいなもので、客たちの目当ては、そこで交わされるさまざまな会話や情報のやりとりの方だった。

そして、おいしいコーヒーを淹れる方法の探求は、むしろ個人のコーヒー愛好家……例えばルイ15世やバルザック、ベートーベン……が行うものだった。

意外に思われるかもしれないが、職人技を磨いておいしさを追求するスタイルのコーヒー店が世界中で広まったのは、ここ数十年のことにすぎない。そして、その初の流行地と言えるのが1970年代の日本だったのである。

 

日本の喫茶店ブームの火付け役

昨今は「コーヒーにはファーストウェーブ(1960年代まで)、セカンドウェーブ(70〜80年代)、サードウェーブ(90年代以降)があって……」という解説を目にしたことのある人も多いだろう。

ただし、これは「戦後アメリカのローカルな視点」での時代区分に過ぎず、ヨーロッパや日本にそのまま当てはめていいものではない。日本には日本独自のコーヒー史があり、日本の喫茶店にはアメリカとは異なる「3つの波」が存在した。

日本で喫茶店が急増した時代は、(1)戦前(1910〜30年代)、(2)昭和後期(1970〜80年代)、(3)平成(1990年代〜)の3期に大別できる。

時期だけ見るとアメリカと日本の2期、3期は重なるが、中身は別物だ。アメリカではセカンドウェーブ期に生豆の品質重視を謳ったスペシャルティコーヒーの動きがはじまり、サードウェーブ期に焙煎・抽出の職人技が脚光を浴びた(これと違う定義を唱える人もいるが、最初に提唱したロスギブ・トリシュの主旨はこれである)が、日本ではこの順番が逆になる。

そもそも、日本の喫茶店ブームはどうして生まれたのだろうか。じつは、1期と3期のブームの火付け役になったのは、それぞれ同時期に日本に持ち込まれたフランスのカフェーー芸術家たちがサロン代わりに使っていた気軽な飲食店――のスタイルだ。

コーヒーは江戸時代、出島にはじめて持ち込まれ、文明開化以降、本格的に広まった。ただし当初は「コーヒーを飲むための専門店」はもちろん存在しておらず、同時期に開業した西洋料理屋で、洋食や洋酒と一緒にはじめて口にした人が多かった。

明治末期、北原白秋や木下杢太郎、石井柏亭といった耽美派の文学者や画家たちが「日本にもフランスのようなカフェ情緒を興そう」と意気投合して「パンの会」を結成。隅田川沿いの西洋料理屋をカフェ代わりに、芸術談義に花を咲かせた。

1911年には洋画家の松山省三が、黒田清輝や永井荷風、森鴎外らから会費を募って「カフェー・プランタン」を銀座で開業した。ここから戦前の「カフェー」の一大ブームが始まったのである。