異性と関わりたくない…ハラスメントが拡大する「快適な社会」の代償

他人との関係が「リスク化」する時代に
御田寺 圭 プロフィール

「究極の個人主義」と社会の持続性

いま急速に進みつつある「他人に被害を与えない」「加害者にならない」ための人権意識の浸透は、「究極の個人主義」ともいうべき思潮を生み出そうとしている。そしてそれが、国家や社会の維持とどのように整合するのか、という難題が残る。

結局のところ、私たち人間には寿命がある。国や社会の持続性を維持するためには、どうしても人口再生産の仕組みに依存しなければならない。男女がつがいになり、子を産み育てることから逃れることができない。私たちは依然として不老不死になる術を見つけてはいないからだ。

だが、前述した『第15回出生動向基本調査』からもわかるように、交際相手がおらず、なおかつ交際自体を望んでいない未婚者の数は、男女問わずもはや「特殊事例」として切って捨てることのできる規模を超えている。すでに「子どもを産み育て、国や社会を安定的に更新し継承する」という人間社会の根本的な営みさえもが相対化され、数多くある「価値観」のひとつにすぎなくなっている。

男女がパートナーになって子どもをつくるためには、一般的には男女双方が接近し親密になる必要がある。しかし「ハラスメント」のリスクが高まった現代社会において、それを積極的に行うメリットはほとんど残されていない。また個人主義に生きる人びとが増えたことによって、子どもを産み育てる社会を推進するような合意形成もやがては得られにくくなるだろう。

そのすべては、私たちが「誰一人として加害者にも被害者にもなることがない、安全で快適に暮らせる社会」を実現するために必要な代償だったのかもしれない。

 

これは人類の「緩やかな自殺」なのか?

逆にいえば、国や社会の人口を維持し、少子化問題に対応していくのであれば、残念ながら各人が他人から「不愉快な関わり」を受ける可能性を多くの人が引き受けなければならないし、ハラスメントの加害者として告発されるリスクも覚悟しなければならないだろう。

国や社会の将来的な安定を気にしないのであれば、子どもを産み育てることなど考えず、十分な娯楽に溢れたこの楽しくて快適な社会を、自分の寿命が尽きるまで楽しむのもひとつの考え方だ。

「思想のためなら死ねる」「神のためなら死ねる」という考えをもつ人びとは、しばしば「過激派」「原理主義者」などといわれてきた。しかし現代の(とりわけ先進国に生きる)人びとはまさに、自由や人権のために「緩やかな自殺」を選ぼうとしているのかもしれない。

繰り返しになるが、それは不幸な決断なのだろうか。嘆くべきことなのだろうか。私にはわからない。少なくともおそらく、自分が生きているうちは「快適で安全な社会」が享受できるのだから。自分が死んだあとの世界で生きる人びとのことはともかくとして――。

私たちは、どのような社会を目指すべきなのか、その社会のあり方を目指していくためのは、なにが代償となるのか、あらためて考えていかなければならないのかもしれない。

明るい側面ばかりをもつものは存在しない。それどころか、その光が強いほど、陽光のあたらない部分の影はより濃く、暗くなるものだ。