では、大久保の〝夢追い人生〟の転機は──。
最初は中3のときに訪れた。
大久保は1941年、東京・浅草に生まれる。家業は米屋。
父に「中学卒業後は大阪の米問屋へ奉公に出て家業を継げ」といわれて育った。それに待ったをかけたのは母だった。
「せめて高校ぐらいは」と父を説得し、都立の商業高校ならという条件で受験を了解させた。大久保は合格し、都立の商業高校に進学する。これが大久保の進路を大きく変える転機となる。
第2の転機は、高3のとき。
当時、高校では、林間・臨海学校を開く際、宿泊先の旅館から教頭へ物品が贈られていたことが発覚。
生徒会長の大久保は、臨時生徒総会で教頭を吊し上げた。
その後、大久保は逆に、教頭に叱責された。
「わが校は毎年一流の会社に生徒を送り込んでいる。お前のような反逆的な生徒がいると生徒を送れなくなる」。
大久保は、その教頭の言葉に発奮し、三越の入社試験に合格。
自信を深めた大久保は、今度は選択科目の中に自分の得意とする簿記が入っていた中央大学経済学部を受験、合格した。
第3の転機は欧米研修旅行だった。
大学卒業後、広告会社に入社して2年目のこと。
その頃、小売業にボランタリーチェーン(独立小売店が共同して営業活動を行うチェーン組織)を啓蒙していた通産省(現・経済産業省)は海外チェーン店の経営者を欧米から招いてセミナーを開いていた。
大久保は毎回出席し、外国人経営者に「研修の機会を与えてくれないか」と直談判した。後日、「OK」の返事が次々と届いた。
1967年、大久保は欧米へ渡航。米国ではまず、南カリフォルニアのスーパーマーケットで6ヶ月間働き、その後、ダラスのコンビニエンスストアで働く。
宿泊はすべてホームステイ。
米国での9ヶ月の研修生活を終えると、欧州へ赴き、英国、ドイツ、東欧の小売店で働く。
この2年間の欧米体験で「米国で事業する」という「夢」を抱くのだ。
帰国後、大久保は米店のボランタリーチェーン構想を打ち出し、米店全国組織「全国食糧事業協同組合連合会」に、台所と直結した配達機能を売り出す〝配達スーパー〟構想を提案。
米店10店単位で商品を一括して仕入れる。
商品は清涼飲料、みそ、洗剤など重いモノ、かさばるモノに絞り、月2回配達する。そして価格はスーパーに準ずるというものだった。
今日のダイオーズの原型である。
その後、スーパーにないユニークな商品を求め、研究した結果、ダスキン本社とフランチャイジー(契約店)契約を結ぶ。5年後、2000社の契約店の中で売り上げ1位になる。
次の「夢」は自らがフランチャイザーになり、独自の事業で日本一になることだ。
ふと脳裏に浮かんだのはカリフォルニアのスーパーで働いたときに見たOCS事業だった。
1977年、本格的事業を開始し、1988年、本場の米国に逆進出する。
「全米一」という新たな「夢」の実現の追求が始まった。