けれど、例えば講師が、日本語が流暢だけど実は韓国の出身だとします。

『先生が韓国人だと知ってしまうと、生徒達が授業に集中できなくなってしまうのではないか。今回は、韓国人であることに触れずにお話いただけないでしょうか?』
そんな提案があったとしたら、時代遅れもはなはだしいですよね。人種差別であることは、誰の目から見ても明らか。

出身を隠して「日本人のふりをしてほしい」と強要するなんて、講師は韓国人であるという自身のパーソナリティを否定されて、深く傷つくでしょう。

同性愛者に対しても、同じこと。

セクシュアリティは、その人を構成する大切なパーソナリティのひとつです。カミングアウトする、しないは、個人の判断において尊重されるべきであって、他人が強要したり妨げたりして良いものではないんです。

さらに、生徒たちが書いてくれた僕の授業の感想を読んで、たとえ先生がゲイだからって、子どもたちが学びに集中できなくなることはないと確信しました。

子どもたちは、大人が過剰に心配しなくても、物事を判断して分別する力をしっかり持っています。危ないから、と鳥かごの中に閉じ込めておくのではなく、様々なものを見せ、経験させ、様々な人と交流させ、考えさせる。そのとき、その子が何を思うかが大切なんです。

それこそが『教育』のあるべき姿なのではないでしょうか。

授業後、僕の元にきた男子生徒

また別の中学校で、授業を終えたときのこと。

みんなが給食の準備を始めて、僕も授業の後片付けをしていると、スラッと背の高い一人の男子が教卓までやって来ました。

先生。先生はいつ自分が同性愛者だって気づいたんですか?

授業の間は、特に何も発言しなくて大人しい生徒だと思っていたけど、わざわざ質問して来てくれるなんて、熱心な子だな。

「僕はね、幼稚園くらいのときには、もしかして自分は他の男の子と違うんじゃないかって思ってたんだ。だから、もう君の歳の頃には、自分がゲイだって理解していたかな」

「そうなんですね。ありがとうございます」

彼は、軽くお辞儀をすると、賑やかな生徒たちの中へ戻って行きました。

その後の反省会で、先生がこんなことを仰いました。

「授業が終わった後に、鈴掛さんに何か質問をしに行った男子がいたでしょ。あの子ね、実は学年で一番手のかかるヤンチャな子なんですよ。そんな彼が、自分から先生に質問しに行くなんて、驚きました!」

それは、とても不思議な体験でした。

同性愛について質問をして来たからって、僕は彼がゲイだとは思いません。ただ、きっと何か彼の中で、思うことがあったのでしょう。それが何かはわからないけれど、世間には、同性愛者という人たちが現実に存在していることを知り、そんな人たちと面と向かってコミュニケーションをとってみようと、自ら行動してくれたことは確かです。

彼の人生の中で、そんなアクションのきっかけを与えることができたのは、なんて有意義なんだろう。僕は静かな感動に包まれました。

今後も、地元の春日井市の中学校を回り、少しずつ全国の学校でもオープンリー・ゲイの講師として授業を行っていく予定です。

同性愛者と対峙したとき、生徒たちが何を感じ、何を思うか。

これからの日本を牽引する存在となる若者たちに、まずはその機会を与えることが、今の教育現場に必要なのではないでしょうか。

第一回 中学生のころの初恋についての記事はこちら
第二回 俳優の彼氏に「いっしょに歩きたくない」と言われたときの話はこちら
第三回 職場に同性愛者がいたら嫌だという人に言いたいことはこちら

「初恋はいつ?」「同性愛者は生産性がないの?」「ゲイの息子を持つ親に大切なことは?」「同性から告白されたらどうしたらいい?」等々、素朴な質問から不躾とも思える質問まで、まっすぐに鈴掛さんが答え、切ない短歌も綴られているエッセイ集。