息子が人を殺しました…千件以上の「加害者家族」支援から見えたこと

日本の犯罪報道への大きな違和感
阿部 恭子 プロフィール

犯人捜しで終わる事件報道

加害者家族の中でも特に、未成年者の親に対するバッシングは凄まじい。

筆者はこれまで1000件以上の加害者家族を支援しており、「親の責任」を否定できないケースも多々見てきた。

たとえ事件が起きた原因が家族にあったとしても、加害者家族に対する嫌がらせやプライバシーの暴露は、加害者の更生や被害者への償いの後押しにはならない。

日本では、子どもが事件を起こすと必ずと言っていいほど「親の責任」という声が上がり、子どもが30歳でも40歳でも親が出て来て謝罪を求められるが、どのような育て方に原因があったのか、事件報道のなかで具体的な責任に踏み込んだ議論がなされることはほとんどない。

犯罪報道が盛り上がりを見せるのは逮捕前後であって、捜査段階では、犯行動機も含めて明らかにならないことも多いはずだ。芸能人をはじめとする加害者家族の謝罪会見も逮捕直後に行われている。

 

しかし、この段階で家族に事件の情報が伝わっているケースは少ないはずであり、具体的に誰に何を謝罪しているのか、いつも見ていて違和感が残る。世間を騒がせたことへの謝罪なのだろうが、こうした形式的な謝罪に意味があるのか疑問である。

世間は一時騒いだとしても所詮は他人事。事件の風化は思った以上に早く、公判が始まる頃には世間の関心は次の事件に移っているというのが私の印象である。

一方で、事件を一生背負わされる加害者家族にとって、事件はなぜ起きたのかを考えることは、事件後も続く加害者との関係を考えていくうえで避けられない問題である。

加害者家族を支援していくにあたって、事件が重大であればあるほど、加害者と面会をしたり、事件にかかわった専門家から話を聞くといった事件自体の検証は不可欠となる。

捜査段階の事件報道で、「今後このような事件を防ぐためには……」などと早々に問題を締めくくるが、事件における家族のかかわりも含め、長期的な視点での事件の検証なしに事件から社会的教訓を導くことはできない。

現在の犯罪報道の多くが、国民の好奇心や応報感情を一時的に満たすだけのものになってはいないだろうか。

声を上げる米国の加害者家族

スー・クレボルト著/仁木めぐみ訳『息子が殺人犯になった―コロンバイン高校銃乱射事件・加害生徒の母の告白』(亜紀書房、2017)は、1999年、コロンバイン高校で起きた高校生二人による銃乱射事件の加害少年の母親による手記である。著者は、メディアにも顔を出して出演しており、本書にも写真が大きく掲載されている。

欧米諸国では、こうした加害者家族による顔出しインタビューは稀なことではない。日本では、親が罪を犯した子どもがインタビューに答えている例はあるものの、加害少年の親で、しかも多数の犠牲者を出した凶悪事件の犯人の親が、世間に顔を晒してインタビューを受けるなど、世間の反応を想像すると鳥肌が立つほどだ。

〔PHOTO〕iStock

1998年、アーカンソー州の高校で銃乱射事件が起きた際も加害少年の母親が顔出しでインタビューに答えているが、報道後、この母親には全米から励ましの手紙が届いたという。

励ましの手紙が届くというだけでも驚きだが、その内容もまた、「息子さんは一番辛い時だから面会に行ってあげてください」「辛い思いをしている兄弟のケアも忘れずに」と筆者が日頃、相談者に助言している言葉が市民から寄せられているということに大きなカルチャーショックを受ける。

息子を殺人犯に育てる母親などいない。事件が起きた事実で加害者家族は十分傷ついている。それに追い打ちをかけるように罵詈雑言を浴びせたからといって、事件によって失われた命が戻ってくるわけではない。

社会がすべきことは、再び同じ悲劇が起こらないために、加害者家族が事件と向き合うことができる環境を作ることではないだろうか。