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リーマンショックの裏で、危険な綱渡りに挑んだ証券ディーラーの運命

東京マネー戦記【1】2008年秋〜冬
森 将人 プロフィール

「関係なくありません。同じチームにいるんですから。状況次第では、ぼくたちにも影響しかねないんですよ」

「状況次第って、どういう意味や?」

「損するようなことになったらという意味です」

「お前な、俺に対して言葉は正確に使えよ。損するようなことって、どういう意味や。そんなことならんように、万全の準備をしとるんやろ。お前は黙って見とりゃええんや」

「本気でいってるんですか?」

ぼくの反応を見ると、木村は声を落としてぼくの隣に座った。

 

「すまん、いい過ぎたわ。先方の財務責任者が、大学のサークルの先輩なんや。昔からよくしてもろうて、俺のいうことは聞いてくれる。その先輩が俺を頼ってくれとる」

「知り合いだからって、簡単に資金を集められるようなマーケットじゃないですよ」

「そんなんわかっとるわ。だから事前に立ち回っとるんやろ。買い手もいくつかは押さえとる」

「1000億円も集まるんですか?」

「できなくもない、いうところやな。そこそこ集まりそうな感触はある。そりゃ、簡単やないけどな。ここで勝負せんでいつ闘うねん」

木村がよくいうセリフだった。男は大事なときにこそ、逃げてはいけない。どこが勝負時か、見い出すために日々訓練しているのだと。

話を聞きながら、ぼくは木村の想定通りにディールが進むか自信がなかった。A社は木村を信じて資金調達を決めたというが、この惨憺たるマーケットの状況が少し改善したくらいで、本当に必要な金額を集めることができるのだろうか。

足もとの大きな変化を見ていると、ぼくは木村を一人にする気になれなかった。

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経験則が通用しない……

一定のプライスの範囲内で投資家の需要を積み上げていくプロセスを、社債市場ではマーケティングという。A社のマーケティングは、初日から波乱含みだった。

米国の競合企業が赤字転落の見通しを発表した日にぶつかり、急落する株価はA社の業績を危ぶんでいた。積極的な投資姿勢も、荒れたマーケットでは不安材料でしかなかった。

たしかに木村の狙いは間違っていなかった。A社は日本企業のなかでも比較的信用力が高く、投資家層も広い。知名度も高く業界内のシェアも一定水準を維持しているので、すぐに会社がつぶれる事態になる可能性は低い。

しかしその後、投資家が徐々に脱落するにいたって、現実の厳しさを再認識させられることになった。地方自治体の資金調達が滞るほどの環境で、民間企業が本当に1000億円もの資金を調達できるのだろうか。

「絶対におかしいで。こんなマーケット見たことないわ」

デスクのモニターを見ながら、木村が首をかしげることが増えていた。価格は問題ではない。みんなリスクを取りたくないのだ。

調達金額が当初見通しの3分の1にも達しないとわかったとき、A社の財務部から「マーケティングを中止したほうがいいのではないか」という問い合わせがあった。A社の判断に沿うべきという周囲の意見に、木村が一人で抵抗していた。

「アホか。今止めたら、次はいつ取れるかわからんやろ。これだけ買いたいいう声があるのに、利用せんでどうするんや」

「こんな見込み違いの調達をすることが、会社のためになると思いますか?」

「そんなんわからんやろ。これからマーケットがもっと悪化するかもしれんのやで」

今後の見通しをどう考えるかの違いだった。もっと悪化すると思えば今調達する理由が立つし、そうでなければ見送ればいい。ぼくが気になったのは、木村が自分の判断ミスを認めたくないという思いだけで取引を強行しようとしているように見えることだった。