篠塚はぼくの10年先輩で、木村より入社は4年早かった。入社以来事業会社の営業を担当しており、人事部にいたこともある。将来を期待された人材であることは、落ち着いた話しぶりからにじみ出ていた。
「今のマーケットはやりにくいか?」
「そうですね、ぼくたちの存在意義が疑われているような気がします」
ぼくは篠塚の問いに、ストレートに反応した。
「そりゃそうだよな。思いっ切りディールをして稼ぎたいだろ。安い売りものが、ごろごろ転がってるからな。我慢できなくなるのはわかるよ。木村にも、もっと自由にやらせてあげたい。でもな、その結果やっぱりダメでしたっていうのは、今の会社の体力では通用しないんだ。俺たちがつぶれる側に回るかもしれない。下手すりゃ、自分の首を差し出さなきゃいけなくなる」
「結果の読める勝負だけをしろっていうことですか?」
「100%読めなんていうつもりはない。ここが勝負だっていうなら、俺も協力しないことはない。でも、俺が何も知らないと思って、こっそりやろうっていう考えなら絶対に許さない」
篠塚は口調を強めると、ビールを飲みほした。
その次の日から、ぼくはしばらく木村の動きを探るように見ていた。
木村は相場観を磨くために、先物取引をチームメンバーに推奨していた。取引を翌日に持ち越すことのない、日計りの商いだ。最近ではこの取引もせずに、モニターを見ては電話で話し込むことが多くなっていた。
木村が得意とするのは、マーケットイベントを先読みした売買だった。企業の業績回復や大型買収を見越して、一日で200億円以上を投入したこともある。誰よりも先に動くことを重視する木村にとって、今こそ稼ぎどきなのかもしれなかった。
「ついに来たで」
木村が顔を紅潮させてぼくの席にきたのは、2週間ほど経ってのことだった。A社が社債発行に動くことが、メディアで伝えられていた。
資金調達に際して買い手を集めるのは、証券会社の役割だ。銀行や保険会社から資金を集め、最終的に発行額が大きくなるほど、証券会社は多くの販売手数料を得ることができる。
「どれくらいの規模なんですか?」
「取れるだけ取る気や。1000億円くらいはやる気らしいで」
「そんなにですか」
ぼくはその金額の大きさに絶句した。日本を代表する電機メーカーであるA社ほどの会社であれば、決して珍しい金額ではなかった。ただ平時でも1000億円集めるのは簡単ではない。マーケットが落ち着かないなかでは、現実的と思えなかった。
ぼくが窓際を見ると、篠塚と目が合った。篠塚も、木村の動きを気にしているようだった。
「もしかして木村さんが動いてたのは、このディールのためですか?」
「何のことや?」
「とぼけないでください。ずっとこの会社を動かそうと準備してたんじゃないんですか?」
「そんなこと、お前には関係ないやろ」