私たちが「常識」を持つことは、生きていくうえで欠かせない能力である。しかしなぜ、近頃の常識というものは、これほどまでに息苦しい世の中をつくっているのだろうか? 気づけばあなたも「常識ウィルス」に感染していないだろうか? 新進気鋭の学者による、「本当の自由」をめぐる論稿!
忘年会シーズンということもあってか、熱燗が恋しい季節となったからか、最近、「日本酒の注ぎ方」がネット上で議論になった。
複数のサイトが〈徳利の注ぎ口は上にして注ぐのがマナー〉と紹介し、その記事のキャプション(スマホやPCの画面写真)がTwitterなどのSNSで拡散されるや否や、多くの人の反感を買ったのである。
注ぎ口を上にする理由は「徳利の口の部分が宝珠に似ているから」だとか、「注ぎ口が円(縁)の切れ目になっている」など。論理的・合理的な理由もなければ何か特別な由緒があるわけでもなく、ダジャレなだけに性質が悪い。
実は、上のような酒の注ぎ方を紹介している記事そのものは、最近出たものではない。「NAVERまとめ」の該当ページでさえ、更新されたのは2014年11月である。だからこの情報はSNS上で再発見されたものと見るべきだろう。最近の話題が最新の情報ではないのはSNSの魅力の一つだ。
事実、筆者はこの注ぎ方を大学時代のときから知っている。つまり、遅くとも15年以上前には存在していたことになる。
そもそも徳利には注ぎ口がついているものとそうでないものがある。一般に注ぎ口がついている徳利の多くは、当然のことながらそこから注ぎやすいよう設計されている。
例えば徳利の首を見てみよう。注ぎ口のところだけくびれが緩やかになるよう成型されており(ちょうど喉のような具合だ)、注ぎ口から綺麗に流れるように工夫されているものが多い。
反対に、口以外の部分はくびれが急で、かなり傾けないと液体が出ないようになっている。いうまでもなく、こぼれるのを防止するためである。
だから実際に「注ぎ口を上にして注ぐ」というのをやってみると分かるが、まあ勢いよく酒が出るわ、注ぎ終わった後のキレも悪いわで具合が悪い。
酔いがそこそこ回ってくると、豪快に酒をこぼした挙句、徳利から垂れた滴でそこら中ベタベタになってくる。マナーというならば、こちらの方がよっぽどマナー違反なのである。
それもまた楽し、という場末の居酒屋であればとにかく、会社の忘年会などでやるべきことではない。接待などもってのほか。
商品を作った人々の気持ちや工夫を無視し、おまけに汚らしい使い方をするような人間が、果たして商売相手として信頼に値するだろうか。冷静に考えれば分かるはずである。
言うまでもないことだが、SNSで炎上騒ぎになったのは酒を注ぐ方法の是非ではない。
「ある人は徳利の注ぎ口を上にして注ぐ、それはしかじかという理由からである」という話であれば、多くの人が「どうでもいい」「そうしたい人はそうすればいい」といった程度にしか考えないだろう。
そうではなく、「日本酒は徳利の注ぎ口を上にして注ぐのが正しい」という不躾な口ぶりが、物議を醸しているのである。
だから多くの人にとって、「マナーとして強要しないでほしい、無意味で余計な気遣いの種は増さないでほしい」というのが本音だろう。無意味な常識に縛られることに、人々は辟易しているわけである。
まったく、酒ぐらい好きに飲ませてほしい……と、本音が出たところで、本題に入ろう。