国境とは「面」だ! 西アフリカのおばさんたちが教えてくれたこと

東大教授にお題エッセイを頼んでみた
佐倉 統 プロフィール

自分で境界線を創った男

最後に、境界線の狭間に何度も落とされてしまいながら、自力で境界線を創出して〈居場所〉を確保した、オートポイエティックな人の例をひとつ。

フランスとドイツにはさまれたアルザス地方の出身で、哲学、神学、音楽などに通じ、西アフリカのガボンで医療福祉とキリスト教伝道活動をおこなったアルベルト・シュヴァイツァー(1875-1965)である。「人道主義者(ヒューマニスト)」という呼び方がいちばんピッタリするかもしれない。

シュヴァイツァーは1952年にノーベル平和賞を受賞し、「アフリカの聖者」と称されることもあるが、アフリカでの評判はあまり良くない。一昔前の、ヨーロッパ文化至上主義的人道主義者なのだ。

開明的で進んだヨーロッパの文化を、遅れたアフリカの〈弟たち〉に広め、導いてあげようという、なんとも鼻持ちならない、植民主義丸出しの考えかただ。哲学者のジャン=ポール・サルトルや指揮者のシャルル・ミュンシュと親戚関係にあるというのも、20世紀前半的ヨーロッパ・エリート主義の匂いがぷんぷんする。その点では過去の人だ。

だけどここで注目したいのは、そういったことではなく、彼が二重三重の意味で故郷喪失者(デラシネ)だったということだ。

シュヴァイツァーの生まれ故郷アルザス地方は、彼が生まれる4年前の1871年に、普仏戦争の結果としてフランスからドイツに割譲された。シュヴァイツァーは家庭では母の語アルザス語と、父祖の言葉であるフランス語を流暢に使っていたが、学校ではドイツ語を強要されたという。

シュヴァイツァー自身はドイツ的なものやドイツ精神を愛したといわれるが、文化的な帰属先としての「母国」はなかったのである。

1913年、彼は医療活動とキリスト教伝道のため、当時フランス領だったガボンの小村ランバレネに向かう。ここでフランス領を選んだのは、ナショナリズムへの反発心だったと言われている。ガボン滞在中に第一次世界大戦が勃発。ドイツ国籍のシュヴァイツァーは「敵国民」として捕らえられ、1917年フランスの捕虜収容所に送還される。

故郷に帰ることができたのは翌1918年で、この年、第一次大戦に敗れたドイツはアルザスとロレーヌをフランスに手放した。シュヴァイツァーは、またしても帰るべき故郷を失った。

しかし彼は、独自の思想と音楽的研鑽を積み、人道的な活動家として多くの足跡を残した。彼にしかできないことを見出し、それを成し遂げる場所を創り上げた。

その評価はともあれ、自分で自分の居場所(ニッチ)を作ること、その場所を他の場所と区別する境界線を引くことを、彼はやり遂げたのだと思う。

アルベルト・シュヴァイツァーアルベルト・シュヴァイツァー(1944年撮影) Photo by Getty Images

無数に生み出される「物語」へ

人為的に引かれる境界線=国境によって〈母国〉が変わることだけが悲劇なのではない。そもそも彼らに〈母国〉はないのだ。

だから悲劇的なのは、むしろ、これからの生活であり、人生であろう。「帰属すべき体制が変わることによって生み出されるおぞましさ」と言うべきか。

以後何十年と続く日々の生活、毎日繰り返される生活そのものが、今までと違った状況、違った雰囲気のものになってしまうのだ。底が見えない暗黒ではないか。

国家というシステムは、ある程度は自力で自己と外界の境界線(国境)を創出することができるかもしれない。しかしその時に、全体システムである国家と、その要素である国民との間にどのような軋轢や影響が生じるかは、一般的に論じられるものでは決してない。さまざまな個別の物語がそこにはある。

普遍性や一般性に引きずられることなく、その個別の物語を丁寧に見ていくことが、果たしてどこまでできるのか。

そして一方で、その多様性な濃密さに埋没せずに、俯瞰した鳥の目も持ち続けることが、果たしてぼくたちにできるのか、どうか。

ビッグデータ解析に一縷の望みを託しつつ、新しい学問の芽生えに期待したい。

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