「境界線」に生きる者が僕たちに教える「豊穣な世界」への行きかた

東大教授にお題エッセイを頼んでみた
水越 伸 プロフィール
東海線東海線の軍事境界線に接する路線(韓国側から撮影)。2018年11月から12月まで、南北の間を鉄道で連結するための現地調査が進められている Photo by Getty Images

鉄道路線もまた地図上では線に過ぎず、線路の幅はわずかなものだ。しかし多くの鉄道史や地理学が教えてくれるとおり、鉄道路線は社会の神経系であり、コミュニケーション・メディアとしての意義を持つ。

鉄道路線上を人や物が数多く行き交うことは、沿線の地理的景観、政治経済、そして社会文化のあり方を時間をかけて確実に変化させていくはずである。

そしてひとたび変化が生じると、その流れは容易に後戻りはしないことだろう。だからこそ、アメリカや中国、ロシアは、この鉄道共同体構想の動向を冷徹に見つめている。

思考停止のしっぺ返し

僕たちはこれまで比較的長い間、おそらくは19世紀後半くらいから1世紀以上の間、ものごとのを区別することで理解し、区別されたそれぞれの部分を最適化することでいろいろなことがらを発展させてきた。

男性と女性、日本人と外国人、総務省と経産省、放送と通信、社会学と政治学など、いろいろなものごとの間に、スケッチブックに線を引くように境界線を引いて、その線の存在をあたりまえの拠り所として安定した社会を作り、東京中心、経済中心に発展してきた。

日本だけではない。アフリカ諸国の多くは縦横に直線で国境線が引かれているが、あれは偶然でもなんでもない。帝国主義的な欧米諸国のトップたちが、38度線と同じように地図上にサッと引いたものだった。

そしてこの間、つまり近代化の過程において、ほとんど誰も、境界線そのものについて注意を払ってはこなかった。

考えてみると、2000年代に入って以来生じている多くの社会問題は、それらへのしっぺ返しのようなものではないだろうか。

境界線そのものをじっくり見つめること

社会のあちこちで境界線が揺らぎ、ものごとの区別がはっきりしなくなった。しばしば起きることは、境界線の両側での非難の応酬合戦だ。境界線のあちら側で差別された者たちは異を唱え権利を主張する。境界線のこちら側で差別してきた者たちは長い安定の中で手に入れた居心地のよさをあたりまえの権利として、相手を侮蔑する。

僕たちはいつの間にか二次元の世界の住人となってしまっている。そしてその世界の奥底には理性ではなく情動がのたうちまわっている。そんなときに、境界線の存在自体を批判すること、たとえば女性差別や外国人排斥を批判することは大切だ。

しかしそれだけでは結局、批判する主体は境界線とそれを含む次元の壁を越えられないのではないか。『フラットランド』の住人たちが19世紀的な階級意識から抜け出せなかったように。

僕たちはもっと境界線そのもののことをよく考え、じっくりと見つめるべきではないだろうか。数学的思考、抽象的思考の上ではただの線だと思われている、その線上を生きる者たち、境界線近辺の出来事にもっと眼をこらしてみるべきではないか。

朝鮮半島の軍事境界線には「シュリ」という名前の小型のコイ科の魚がたくさん棲息している。この魚の名前をタイトルに用いたのが、1999年の韓国映画『シュリ』だ。北朝鮮工作員と韓国諜報部員の悲恋を背景としたアクション映画で、いわゆる韓流ブームのさきがけとなり、日本でもヒットした。そのなかでシュリという魚は男女を結びつけ、南北を架橋するシンボルとして描かれている。

僕はいずれ非武装地帯でシュリもジャコウジカも見てみたい。ひょっとしたら幻のアムールヒョウに会えるかもしれない。そして釜山からシベリア特急にも乗ってみたい。

それがいつかはわからないが、しかしそれを想像することは、東アジアに住む者にとってとても大切なことだと思う。

【参考文献・情報】
・エドウィン・アボット・アボット著/竹内薫訳『フラットランド たくさんの次元のものがたり』(講談社選書メチエ、2017年。原著は1884年初版)
・神谷毅「戦争が作り出した『野生生物の宝庫』 朝鮮半島の非武装地帯」(「朝日新聞GLOBE+」2017年10月12日付。
2018年10月1日アクセス)
・Jennifer Billock."How Korea’s Demilitarized Zone Became an Accidental Wildlife Paradise" Smithonian.com, Feb.12, 2018
(2018年10月1日アクセス)
・カン・ジェギュ監督『シュリ』(1999年、韓国映画)

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