英国の最新鋭戦艦を撃沈した攻撃機指揮官が遺した「意外な言葉」

77年前の今日 マレー沖海戦
神立 尚紀 プロフィール

海戦の8日後、戦いの海に投下した花束

マレー沖海戦から8日後の12月18日、鹿屋空は、アナンバス島シアンタン電信所の爆撃を命じられた。

「途中、英戦艦二隻を沈めた現場の上空を通るから、前川一飛曹に、基地近くの花屋で花束を二つ買ってこさせました。爆撃を終えての帰途、自分の中隊を率いて高度300メートルで旧戦場に行くと、その日は波も穏やかで、浅い海に沈んでいる艦影が黒くはっきり見えました。はじめ『レパルス』の近くに、戦死した部下、戦友の冥福を祈って花束を投下、さらに『プリンス・オブ・ウェールズ』の上空から花束を投げ、イギリス海軍の将兵の霊に対して敬礼しました」

 

この慰霊飛行は新聞にも報道され、武士道精神あふれる「戦場美談」として内外に知られることになった。戦時中のわずかな期間だったが、国民学校の修身の教科書にもこのエピソードが紹介されたという。

しかし、こうやって「美談の主」に祭り上げられることは壹岐さんの本意ではなく、戦後、そのことを人に訊ねられても、

「誉めてもらおうと思ってやったことではありません」

と、多くを語らないのがつねだった。

昭和19年暮、攻撃第四〇六飛行隊長時代の壹岐春記さん(当時・少佐)

これは、戦を知り抜いた戦士として、己の任務を果たして斃れた戦士に対する哀悼の念の、ごく自然な表現だったのだ。そこには敵、味方を超えた何かがあったに違いない。

「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」が、航空攻撃のみで撃沈されたことは、世界中で驚きをもって受け止められた。なかでも、この両艦と相まみえることに決死の覚悟をしていた戦艦「金剛」「榛名」の乗組員の安堵は大きかった。「榛名」の松永さんは、

「父が司令官として率いる航空部隊が敵艦を沈めてくれたことで、命拾いをしました」

と回想している。松永さんは、「iモード生みの親」松永真理さんの父だから、もしマレー沖海戦が起こらず、「榛名」が英戦艦と戦って撃沈されたりしていれば、現代のIT事情も、いくぶん様相が違っていたかもしれない。

ただ、その後、アメリカ、イギリスの戦艦は対空火器を強化し、機動部隊を航空機の攻撃から守ることに絶大な威力を発揮、日本軍機が航行中の戦艦を撃沈できたのは、これが最初で最後の機会となる。逆に、日本海軍の戦艦は、昭和19(1944)年10月24日、フィリピン・シブヤン海で「武蔵」が、昭和20(1945)年4月7日、九州沖で「大和」が、それぞれ米軍の航空攻撃で撃沈された。

マレー沖海戦に参加した、鹿屋空、元山空、美幌空の陸攻搭乗員は、索敵機もふくめ全部で677名にのぼる。正副操縦員に偵察員、電信員、搭乗整備員がそれぞれ1~3名、1機あたり7~8名が搭乗するから、1人乗りの戦闘機などと比べて人数も膨大になるが、その多くが終戦までに戦没した。

 

――余談になるが、元山空の一員としてこの戦いに参加し、戦争を生き抜いた人のなかに、田中友治さん(当時・一等飛行兵)という人がいる。

田中さんは、戦後、東京・有楽町のガード下、東京都庁(現在の東京国際フォーラムの場所)の目の前に「メトロ」というパチンコ店を開いた。朝鮮戦争さなかの昭和26(1951)年春、日本がまだ、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の事実上の支配下にあった頃のことである。

歴戦の陸攻乗りだった田中さんにとって、連合軍の将兵が、日本人女性を腕にぶら下げるようにして連れ歩き、大手を振ってまかり通る戦後の東京の姿は、けっして面白いものではなかった。

そこで田中さんは、丸の内の第一生命館に置かれたGHQ本部からもほど近く、お膝元とも言える有楽町で、店の外に向けてスピーカーを置き、行進曲「軍艦」(軍艦マーチ)を、朝から晩まで大音量で流し続けたのだ。これは、敗戦国の旧軍人にとって、精いっぱいの反骨心の表し方だった。

「そうするとね、向かいの都庁の職員が喜んじゃって。みんな、進駐軍が威張っていることに不満を持ってますからね。とにかく、あの曲はじつに調子がいいでしょう。店はいつも大入り満員で、数年のうちに新しい店をいくつも出しましたよ」

と、田中さんは筆者に語っている。GHQの機嫌を損ねることを「忖度」した警視庁丸の内署の警察官が、GHQ本部に田中さんを任意同行し、米軍の係官に確認を求めたところ、

「音楽ぐらいはかまわない」

とのお墨付きを得たのだという。もとより、行進曲「軍艦」は、瀬戸口藤吉が作曲し、明治33(1900)年に初演された歴史のある行進曲で、海外でも戦前から知られている。GHQとしても、朝鮮戦争で忙しいなか、こんなことに目くじらをたてて日本人の反感を買うのは得策ではない、と考えたのではないだろうか。

田中さんはその後パチンコ店を閉め、五反田駅に近い目黒川沿いに「赤のれん」という24時間営業の飲食店を開業した。昼は和洋定食、夜は事実上居酒屋、1階は椅子席、2階は座敷席で、一般客でもにぎわうが、特に海軍航空関係の戦友会には、なくてはならない店だった。

2階は人払いができるので、源田實・元大佐が率いる第三四三海軍航空隊の残党が、旧海軍軍令部の密命をおびて密かに従事していた「皇統護持作戦」(占領軍によって天皇の身に万一のことが起きたさい、皇統を絶やさないよう、皇族の子弟をかくまう秘密作戦)の解散式も、昭和56(1981)年1月7日、ここで行われている。

「赤のれん」は、平成15(2003)年7月、惜しまれつつ閉店したが、田中さんは、店の客とも気さくに交わる、陽気で愉快な人だった。