さよならダイナマイト・キッド!初代タイガーが捧げる「最期の言葉」

過去は振り返らない。けれども…

昭和のプロレス界を彩った名レスラー、ダイナマイト・キッドが12月5日に亡くなった。永遠のライバル・タイガーマスクーー佐山サトルの評伝『真説・佐山サトル』を著したノンフィクションライターの田崎健太氏が、佐山とキッドの秘話を明かす――。

衝撃のデビュー戦

初代タイガーマスクこと、佐山サトルさんの人生は1981年4月23日に大きく変わった。

イギリスから一時帰国した佐山さんはこの日、初めてタイガーマスクとして蔵前国技館のリングに立った。一試合だけタイガーマスクとして試合をこなしてイギリスに戻るつもりだった。

「デビュー戦」の相手はダイナマイト・キッドことトーマス・ビリトン――水色のタイツを穿き、手足、そして胸に空気ポンプで膨らませたような筋肉がついたレスラーだった。佐山さんがイギリスに本拠地を移したとき、ダイナマイト・キッドはすでに国を出ており、面識はなかった。

佐山さんはその身体的能力に驚いたという。

「スピードとパンチ力。その圧が凄かった。こっちも必死でやらないといけないと思いましたね」

佐山さんはイギリスで〝サミー・リー〟の名前で大人気のレスラーとなっていた。イギリスと比べると、日本の観客の反応は薄いなと感じた。

「ああ、普通の試合だったんだなと思って、控室に戻ると新聞記者がわーっと寄ってきて、凄かったと言われたんです。自分ではそんな(観客に受けたという)感覚はなかった」

観客が静かだったのは、タイガーマスクの華麗な技に圧倒されたからだった。

 

この日から、タイガーマスクというジェットコースターが動き出すことになった。そして、ダイナマイト・キッドとの対戦は新日本プロレスの看板カードとなった。

ただし、タイガーマスクとしての活動期間は長く続かなかった。83年8月、カナダのカルガリーで予定されていた、ダイナマイト・キッドとのタイトルマッチをキャンセルし、佐山さんは新日本プロレスを退団した。

原因は新日本の内部抗争に厭気が差したこと、そして自分で新しい格闘技を作り上げたいと考えたからだ。

キッドとの再会

その後、9月末、佐山さんはアメリカに向かった。『GORO』という雑誌から、流れてしまったダイナマイトキッドとのタイトルマッチの〝再戦〟をしないかという企画が持ち込まれたのだ。

ダイナマイト・キッドはワシントン州のシアトルに滞在していた。街に到着するとすぐに彼が練習拠点としているジムに向かった。

この企画の発案者であるカメラマンの山本皓一さんはこう振り返る。

「キッドの方も決着をつけたかったんでしょう。彼が『これからすぐにやろう』って言い出したんじゃなかったかな。夜9時ぐらいに(ジムの営業が終わり)誰もいなくなってから、ぼくたちだけで行ったんです。観客はいない。ノーリング、ノーギャラ。そこで真剣な顔で組んだり、跳び蹴りしたり。試合そのものだった」

山本さんは二人の熱気に魅入られたようにシャッターを切り続けた。

撮影:山本皓一

「30分ぐらいやって、突然、ふっと殺気が消えたんです。それまでが嘘のように、すーっと顔が変わった。勝負はつかなかったけど、二人とも十分だと思ったのかな。それでにこっと笑って抱き合った。それから後は一緒に飯を食いに行って、酒を飲んだ」

そこはダイナマイト・キッドの行きつけの店だった。彼はおどけて、タイガーマスクのマスクを被った。