2018.12.09

それでも北方領土「二島」が返ってこない理由

再交渉シナリオに存在する稚拙なウソ
矢部 宏治 プロフィール

そしてその矛盾が頂点に達したのが、それから9年後、2度目の外務大臣に就任した大平をターゲットに米軍がしかけてきた、「核爆撃機を多数搭載した空母ミッドウェイの横須賀・母港化」計画だったのである。

これは実質的に「外国軍の小規模の核攻撃基地を自国の領土内に設置する」ことを意味したので、1973年10月にミッドウェイの横須賀・母港化が実現した時点で、外務省がそれまで「日本の国是」としてきた非核三原則は、完全に崩壊することになったのである。

ところがなんと翌1974年、その実際は完全に崩壊している非核三原則を理由として、佐藤栄作首相がノーベル平和賞を受賞してしまうのである。

このいかなる論理的説明も絶対に不可能な究極の矛盾、その内実をアメリカ側からリークされたら「日本外交」が一巻の終わりになってしまう恥ずべき出来事をきっかけに、その後、日本の外務省は対米交渉能力を失い、ただただ米軍の要求に従っていくしかないという完全従属状態に陥っていくことになる。

どうずれば戻ってくるのか?

そしてここからが問題の「日米地位協定の考え方」の話だ。

「空母ミッドウェイの横須賀・母港化」の要求が、アメリカ側から大平外務大臣に突きつけられたのは、田中(角栄)内閣が誕生した翌月、1972年8月にハワイで行われた田中・ニクソンの首脳会談でのことだった。

そして以後、この難問中の難問の処理を任されることになったのが、ハワイでの首脳会談を駐米公使としてアテンドし、その直後にアメリカ局長(北米局長)に横すべりで就任した大河原良雄氏(その後、駐米大使)である。

「日米地位協定の考え方」という極秘文書は、この大河原・アメリカ局長の強い関与のもと、外務省条約局とアメリカ局の共同作成文書として、条約課長・安保課長の承認をへて翌1973年4月に完成し、関係部局で共有されたものだった。

 

加えて注目すべきは、執筆を担当した丹波氏の上司である上記の「条約課長」とは、その後、条約局長、北米局長、事務次官、駐米大使を歴任し、現在でも戦後の外務省で条約畑の最高権威とされる栗山尚一(たかかず)氏だったということだ。

だからこの「日米地位協定の考え方」に書かれた内容が、担当執筆官の偏った個人的見解であるなどということは、絶対にありえないのである。

さらに話は続く。われわれ日米安保問題を手がけている人間にとって、大河原良雄氏がもっとも記憶されるべきは、「大河原答弁」と呼ばれる1973年7月の国会での発言である。それは、その3ヵ月前に完成していた「日米地位協定の考え方」と強く連動する形で、

「米軍には原則として、日本の国内法が適用される」

という、それまで外務省がなんとかぎりぎり維持してきた見解を退け、

「米軍には、日本の国内法は適用されない」

という米軍側の主張を、公式に認めたはじめてのものとなった。

それ以来、岸が1960年に結んだ米軍による「日本の国土の自由使用」と「国外への自由出撃」という2種類の密約の内容が、外務省内でも公然と認められるようになり、かつて朝鮮戦争の中から生まれた「旧安保条約+行政協定」という米軍の治外法権的な特権が、「新安保条約+地位協定」という新しい条文によってすべて継承されることが、法的・政治的に確定してしまった。

そのなかで「核爆撃機を多数搭載した空母ミッドウェイの横須賀・母港化」と「佐藤首相のノーベル平和賞受賞」という究極の矛盾もまた、うやむやにされていったのだった。

こうしたきわめて従属的かつ非論理的な構造を改め、日本国民自身の手に軍事上の主権を取り戻さない限り、日本が自らの判断で他国と領土問題や平和条約について交渉することなど、絶対に不可能なのである。

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