# フェミニズム # ケア労働

私がゼミ飲み会で「女子のサラダ取り分け」を禁止することがある理由

サラダから考えるケアと自由
小宮 友根 プロフィール

「取り分けたい」を文字通り受け取っていいのか

続いて「取り分けたい女性もいる」という話について。もちろん取り分けたい女性が取り分けてもよいと思うのですが、ここにも気をつけておきたいことが二点ほどあります。

ひとつは、「取り分けたいから取り分けます」と女性が言ったときに、文字どおりにそれを受け取るのはちょっと単純すぎるのではないかということです。

そもそも「取り分けたい」か「取り分けたくない」かは、1か0かの二値しかないような区別ではありません。「取り分けるのは嫌ではないが、女性がするのには疑問を感じる」という場合も、「取り分けたくないが、誰も何もしないまま皆が直箸で取っていくのは嫌」という場合もあるでしょう。

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上で述べたような構造があることを考えれば、結果として女性が「取り分けたい」という場合でも、それはさまざまなグラデーションや葛藤を「女性だから」が塗りつぶした結果ではないかと考えておく必要はあるのではないかと思います。

 

自由にさせているだけでは変わらない

もうひとつは、「取り分けたい女性」が取り分けているかぎり、男性の側は何も変わらないままだということです。「取り分けない」男性の中にも、「各自が取ればいいのに」「自分もやったほうがいいかな」と思っていながら口も手も動くには至らない、という人もいるでしょう。

この「動かなさ」もまた上記の構造の産物です。男性の中にもケア労働に習熟した身体をもつ人が同程度にいるのでない限り、「やりたい女性もいる」というのは結局「女性の中で誰がやるか」を考えているに過ぎないことになります。

こうして、女性とケア労働の結びつきという行為選択肢の構造は、「各人の自由」にというだけでは変わらないどころか気づかれないままに温存されることになりかねません。

複数の選択肢があっても実質的にひとつしか選べなければそれは自由ではないとするならば、ケア労働について性別によって選択肢構造の異なる私たちの社会は、まだ「各人の自由に」と言えばそれですむだけの条件は整っているとは言えないだろうと思います。

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この「自由」あるいは「自由の条件」という観点が、「されどサラダ」の第二の理由です。

忘年会をきっかけに考える

以上、サラダの取り分け問題が意外と射程の広い問題であることを二つの観点から述べてきました。私が「女子のサラダ取り分け禁止」の機会を設けることがあるのは、この「されどサラダ」を背景にしてのことです。

「やりたい」にせよ「やりたくない」にせよ、なぜそれが女性の役割とされるのか、加えて男性には女性と比べて自分が特定の技能に習熟していないのではないかということも、「たかがサラダ」を越えた問題として考えてもらう機会になればと思っています。

さて、忘年会シーズンです。飲み会が続く方もいることでしょう。この機会に、「サラダ取り分け」に象徴されるような「飲み会内家事」を誰がどのようにおこなっているのか、ちょっと振り返って考えてみて、そこに働く構造があればそれを多少なりとも解除しようとしてみるのはいかがでしょうか。

はましゃかさんの「サラダ取り分け禁止委員会」はやはり面白い試みだと思います。自分の振る舞いの理由を「会」に帰属することは、個人の意図や責任が主題化するのを避けつつその振る舞いを回避する、上手な工夫と言えるでしょう。

実のところ、似たような工夫はすでに多くの女性たちが、時には白い目で見られたりしながらも日々さまざまに考えながらやっていて、上手くいったりいかなかったりしつつサバイブしているのだろうと思います。

だから、そうした工夫を誰か(特に女性が)勇気を出して実行したとき、周りもそれをサポートすることができたら、そこでは確かに社会の構造が少し変わっているのです。

みなさんの飲み会が、性別にかかわらず楽しいものになることを願っています。