# フェミニズム # ケア労働

私がゼミ飲み会で「女子のサラダ取り分け」を禁止することがある理由

サラダから考えるケアと自由
小宮 友根 プロフィール

それは本当に「自由な選択」なのか

次に「自由」という観点から考えてみましょう。「取り分けたい人が取り分ければいいだけ」「取り分けたい女性もいる」という話についてです。順番に考えます。

まず「取り分けたい人が取り分ければいいだけ」について。もちろんそうなっていればよいのですが、既に述べたとおり、問題はそうなっていない点にあります。

そしてそうなっていないのは、上で述べた女性とケア労働との結びつきが、好むと好まざるとにかかわらず私たちの振る舞いを方向づけているからだと考えられます。

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具体的に考えましょう。はましゃかさんのコラムで述べられているのは、女性にとってサラダの取り分けをすることは「女子力高~い!」と肯定的に評価されることであり、逆にやらなければ「気遣いができない」と否定的に評価されるような振る舞いだということでした。

このような評価軸は、女性にとって「取り分けをしない」という選択肢を「取り分けをする」という選択肢よりも選びにくくさせるでしょう。逆に男性は取り分けをしなくても否定的に評価されにくいとすれば、結局女性がすることになりやすいという傾きがそこに生じることになります。

似たような問題として、「育児」は女性にとってはやって当然、やらなければ非難される可能性があるのに対して男性はやらなくても非難されにくく、逆に育休をとってがっつり育児をしようとすると「会社に迷惑をかける」と非難される場合があるという問題があります。

 

「技能」が高まることの意味

それだけではありません。こうした傾きは、慣習として繰り返されるうちにある種の「技能」として身体化されるものでもあります。

私が最近お気に入りの漫画に田村由美先生の『ミステリと言う勿れ』(小学館)があるのですが、その1巻に、主人公の九能整(くのう ととのう)くんという大学生が、夫婦関係に悩む刑事にアドバイスをする場面があります(なぜ大学生が刑事にアドバイスしてるのかについては是非作品をお読み下さい)。

「自分もゴミ捨てなどの家事を手伝っていることを妻にわかってほしい」と言う刑事に対して、整くんはこう返します。「ゴミ捨てって家中のゴミを集めるとこから始まるんですよ」「分別できてなかったらして、袋を取り替えて、生ゴミも水切って、ついでに排水溝の掃除もして、ゴミ袋の在庫があるかチェックして、そうやってやっと一つにまとめるんですよ」

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整くんが言うように、一口に「ゴミ捨て」といってもそれはさまざまな細かい作業の集合体です。それは普段やっている人にはあたりまえのようにやるべきこととして見えているものであっても、やらない人には存在すら気づかれません。

昨年ネット上では「名もなき家事」が話題になりましたが(BuzzFeedの記事)、そうした細かな作業に気づいてそれを実行することができるのは普段やっている人の技能であり、未経験者がいきなり同じようにできるとは限らないものです。

サラダの取り分けにも、そこまでではありませんが、技能的な側面はあるように思います。まず「取り分け」という「飲み会内家事」があることを意識しているかどうかで、トングに手を伸ばす速さは変わってくるでしょう。

サラダ内の野菜やドレッシングをどう均等に分けるか、上にかかってるカリカリしたものはどうしたらいいのか、特定の野菜が苦手な人はいないかといった問題を考える必要な場合もあるかもしれません。

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こうしたことがらに特定の人が習熟することで、「普段やっている人のほうが率先して動きやすい」という傾きが生まれることになります。

評価と技能によって振る舞いの選択にかかるこうした傾きのことを、まとめて「行為選択肢の構造」と呼んでおきましょう。選びやすい選択肢と選びにくい選択肢があるということです。

この構造が男女で異なっているかぎり、「取り分けたい人が取り分ければいい」というだけでは「女性のほうがやる」という事態はそれほど変わることはないと思われます。