# フェミニズム # ケア労働

私がゼミ飲み会で「女子のサラダ取り分け」を禁止することがある理由

サラダから考えるケアと自由
小宮 友根 プロフィール

「飲み会内家事」としての取り分け

さて、「サラダの取り分け」も「ケア労働」のひとつです。「労働」というとおおげさに聞こえるかもしれませんが、「人の世話をすること」であることは確かです。

したがって、「サラダの取り分け」による「女子力」の評価は、「女性」と「ケア労働」との結びつきが、「飲み会」という場に表れたものだと考えることができるでしょう。それは言ってみれば、「飲み会内家事」なのです。

このように考えるならば、「サラダの取り分け」を女子力という点で評価することは、もはや単なる飲み会内だけの役割分担ではなくなります。それは、社会に広く存在する女性とケア労働との結びつきを、飲み会の場においても再現してみせることなのです。

したがって「女子がやる」という雰囲気を「嫌だな」と思う女性がいるのは、そのケア労働に対して「ここでもまた」と感じるからではないかとまずは考えることができます。

ケア労働は過小評価されがち

この結びつきはさらに大きな意味をもつ可能性があります。

フェミニズム論の文脈では、ケア労働はその価値が過小評価されていることが問題とされてきました。人の世話をする活動は「サポート役」としての従属的な活動で、男性と結びついた主体的な活動に比べて価値が低いとされているのではないかということです。

サラダの取り分けにこの議論がそのままあてはまるかどうかわかりませんが、次のように考えてみることはできるでしょう。

男性だけの職場で誰かがサラダなどの取り分けをする必要が生じたら、上司ではなく部下がすることになるのではないでしょうか。だとするとその振る舞いには、「目下のものがやる仕事」という意味が含まれていないでしょうか。

〔PHOTO〕iStock

もしそのような意味が含まれているとするならば、女性と男性がいる飲み会で「女子」がそれをおこなう役目になるとき、そのことが男女間の上下関係を表現してしまっていないか、疑ってみる必要があることになるでしょう。サラダ取り分けを嫌だという思う感覚は、この上下関係にも根ざしているかもしれません。

 

念のために述べておけば、上記のことは、女性がサラダの取り分けをすることが常に社会の性別分業や男女間の上下関係をなぞることになるということを意味するわけではありません。振る舞いの意味はその場の文脈や人間関係に依存するものですから、女性の振る舞いに常に「女性だから」という意味づけがなされるとも限りません。

けれど、特別の文脈や参加者間の信頼関係がなければ、ケア労働に対しては「女性だから」やっているという意味づけが生じてしまう可能性は低くないし、まして「女子力」による評価は積極的にそうした意味づけをすることになっているということに十分に注意を必要があるということです。

セクハラになるかもしれない

この点、ただでさえ「上司と部下」という上下関係がある職場の飲み会などはちょっと危険な場所です。厚生労働省は「性別役割分担意識に基づく言動」が「セクシュアルハラスメント」発生の原因や背景となると注意を促しています(厚労省「セクシュアルハラスメント対策に取り組む事業主の方へ」)。

例に挙げられているのは飲み会でお酌をさせたり上司の隣に座らせたりすることですが、サラダの取り分けも「女だから」という理由でやらせればセクハラになりうるでしょう。「たかがサラダ」と侮っていると大きな問題になってしまうかもしれないのです。

以上、「ケア」あるいは「女性とケア労働との結びつき」という観点が、「されどサラダ」の第一の理由です。