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# ケア労働 # フェミニズム

私がゼミ飲み会で「女子のサラダ取り分け」を禁止することがある理由

サラダから考えるケアと自由

たかがサラダ、されどサラダ

先日、TABI LABOというウェブメディアで「サラダ取り分け禁止委員会」という興味深いものが取り上げられている記事を見かけました(こちら。記事自体は2018年7月)。

「委員会」は、はましゃかさんというライターさんが一人で立ち上げたもので、飲み会でサラダが出たときに「女子」が取り分けるという、なんとなく存在している雰囲気に疑問を呈する試みだそうです(はましゃかさん自身のコラムはこちら)。

私はこの試みを面白いと思ったのでツイッターで紹介したところ、少し反響がありました。おおむね「たしかにそういうよくない雰囲気ありますね」という肯定的なものでしたが、「たかが飲み会のサラダにおおげさな」「取り分けたい人が取り分ければいいだけ」という否定的なものもありました。

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実は私も、自分のゼミの飲み会で(学生の様子や男女比、人間関係などを考慮しつつ)「女子のサラダ取り分け禁止」にすることがあります。

学生たちは最初はちょっと驚きつつも、さりとて大して気にすることもなく、男子が慣れない(あるいは意外に慣れた)手つきで取り分けたり、でなければそもそも誰も取り分けをせずに飲み会を楽しむのですが、ツイッターではこの「取り分け禁止」に対しても、「取り分けたい女性の自由を抑圧するな」といった反応がありました。

「たかがサラダ」。そのとおり。「やりたい人がやればよい」。そのとおり。私もそう思います。けれどここで考えなければならないと思うのは、ではその「たかがサラダ」の取り分けが、なぜ「やりたい人がやる」ことになっていないのかという問題です。

 

男子ではなく「女子がやる」という雰囲気があり、しかもその取り分けが「女子力高~い!」という評価と結びついているのはいったいどういうことなのでしょう。そしてはましゃかさんが「禁止委員会」を立ち上げようと思うくらいには、女性の中にそのことをなんだか嫌だなと思っている人がいるというのはどういうことなのでしょう。

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ここには、「たかがサラダ」にとどまらない、もうちょっと射程の広い問題があるように思います。この記事ではその「されどサラダ」の問題について、「ケア」と「自由」という二つの観点から少し述べてみましょう。

「ケア労働」としての「サラダの取り分け」

まず、「サラダの取り分け」が「女子力」を評価する対象となっていることについて考えましょう。「女子力」ということば自体はやや古くなってきた感がありますが、それでもこのことは、サラダを取り分けることが「女性のすべきこと」とされていることを示しているでしょう。

この点でまず、サラダの取り分けは単なる「飲み会の役割」にとどまらない意味をもっています。

私たちの社会には「女性のすべきこと」とされていることが他にもたくさんあります。典型的には炊事、洗濯、掃除、子どもの世話、病人や老人の介護などです。これらはどれも「人の世話(ケア)」をすることなので、まとめて「ケア労働」と呼ばれることもあります。

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つまり、私たちの社会には「ケア労働」を「女性」と結びつけるような振る舞いの規範があるのです。

このことが一番はっきりとあらわれるのは家庭における性別分業ですが、女性とケア労働の結びつきは賃金労働の内部にもあります。保育や看護、介護にかかわる職業は圧倒的に「女性職」です。

会社内での掃除やコピー取りといった「職場内家事」が女性社員の役割になっていることを、「この国は女性にとって発展途上国だ」という印象的なコピーとともに描いたPOLAのCM(Youtubeへのリンク)が話題になったのはわずか2年前のことでした。