「何故攻撃に出ぬか…」太平洋戦争下の昭和天皇「お言葉」の数々

戦争責任の苦悩も明らかになったが…
辻田 真佐憲 プロフィール

「万一の場合には自分が御守りして運命を共に」

天皇はいつ敗戦を覚悟したのか。これも諸説紛々たるところだ。

天皇が早く手を打たなかったので戦禍が拡大したとの批判がある一方で、ここまで待たなければ軍部を抑えられず、終戦処理など不可能だったとの見解もある。

いずれにせよ、1945年7月米英中三国の連名でポツダム宣言が発表された。日本への降伏勧告だった。日本は、ソ連を通じての和平交渉に望みを託す傍ら、本土決戦も覚悟せざるをえなくなった。

 

天皇がここで心配したのは、三種の神器のことだった。7月31日に木戸幸一内大臣にこう語った。

「先日、内大臣の話た伊勢大神宮のことは誠に重大なことと思ひ、種々考へて居たが、伊勢と熱田の神器は結局自分の身近に御移して御守りするのが一番よいと思ふ。[中略]万一の場合には自分が御守りして運命を共にする外ないと思ふ」(『木戸幸一日記』)

三種の神器は、八咫鏡(やたのかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)のことで、皇位の証とされる。このうち八咫鏡は伊勢神宮に、草薙剣は熱田神宮にあった。

そのため天皇は、敵に奪われないように自分の身近に移そうかと悩み、いざというときは「運命を共にする」とまで決心していたのである。

そうこうする間に8月になり、米軍が広島と長崎に原爆を投下し、また頼みの綱だったソ連が対日参戦するに至った。万策尽きた日本は、国体護持の条件が容れられたとみなし、同月14日、米英中ソの四国に対してポツダム宣言の受諾を通告した。有名な玉音放送が行なわれるのはその翌日のことである。

〔PHOTO〕gettyimages

単純な二者択一では実態に迫れない

以上をみてもわかるとおり、昭和天皇は戦時中たいへん多弁だった。一旦開戦した以上、大元帥としての役割を果たそうとしたのかもしれない。明治天皇はここまでではなかったので、これは昭和天皇に顕著な特徴だった。

もちろん、これのみをもって好戦的だと断ずるのは早計すぎる。昭和天皇の「お言葉」は、平時の平和志向のものも実に多いからだ。だからこそ議論を引き起こして止まない。

平和主義者か、軍国主義者か。そんな単純な二者択一から卒業しなければ、その実態に迫ることはできないだろう。来年の改元で、昭和もいよいよ遠くなる。これをより冷静で多元的な議論のきっかけにしたいところである。

【参考文献】
・「『戦争責任』いわれ辛い 昭和天皇素顔の27冊」(小林忍侍従日記)『47news』、2018年。
・宮内庁(編)『昭和天皇実録』8・9巻、東京書籍、2016年。
・防衛庁防衛研究所戦史部(監修)、中尾裕次(編)『昭和天皇発言記録集成』上下巻、芙蓉書房、2003年。
・山田朗『昭和天皇の戦争指導』昭和出版、1990年。
・同『大元帥昭和天皇』新日本出版社、1994年。
・同『昭和天皇の戦争 「昭和天皇実録」に残されたこと・消されたこと』岩波書店、2017年。
※引用にあたっては、読みやすさを考え、カタカナをひらがなに直し、適宜句読点を付すなどした。
※引用資料のうち『眞田穰一郎少将日記』は、上掲の『昭和天皇発言記録集成』と山田書で微妙に引用の文言などが異なっている。同資料はきわめて難読であり、筆者も所蔵する防衛省防衛研究所で原本の複製を確認したが、ミミズがのたくりまわっているような状態で、確定できなかった。そこで本稿では、『集成』の文言に従った。