真珠湾攻撃に参加した隊員たちがこっそり明かした「本音」

決して「卑怯なだまし討ち」ではない
神立 尚紀 プロフィール

「詰めが甘い」と感じた第三次攻撃の中止

空襲を終えた攻撃隊は、次々と母艦に帰投し、各指揮官が発着艦指揮所の前に搭乗員を集め、戦果を集計した。

 

進藤さんは、「赤城」艦爆隊と合流して帰還した。機動部隊司令長官・南雲忠一中将が、わざわざ艦橋から飛行甲板上に下りてきて、「ご苦労だった」と進藤さんの手を握った。そして、攻撃に参加した士官搭乗員のなかではもっとも若い、艦爆隊の本島さんを抱きしめ、

「よく帰ってきたなあ」

とねぎらった。進藤さんも本島さんも、南雲中将がこのように感情を露わにするところを見たのは初めてだった。

ほどなく、最後まで真珠湾上空にとどまっていた総指揮官・淵田中佐の九七艦攻が帰艦する。大戦果の報に、艦内は沸き立った。しかし、日本側にとって残念なことに、敵空母は真珠湾に在泊していなかった。

もし、敵空母が近くの海上にいるのなら、こんどはこちらが攻撃されるかもしれない。第一次、第二次の攻撃から帰還した零戦が、燃料、弾薬を補給して各空母から数機ずつ、ふたたび上空哨戒のため発艦する。

艦上では、第三次発進部隊の準備が進められている。「蒼龍」の第二航空戦隊司令官・山口多聞少将からは、「蒼龍」「飛龍」の発艦準備が完了したとの信号が送られてきた。この攻撃隊を出撃させれば、日本を発つまでに1機あたり150発(出撃1.5回分)しか用意できなかった零戦の20ミリ機銃弾は、概ね尽きるところであった。

しかし、南雲中将は、第三次発進部隊の発艦をとりやめ、日本への帰投針路をとることを命じた。これは、すでに所期の戦果を挙げたと認められるいま、敵空母の所在位置がわからないまま、その場にとどまることは不利であるとの状況判断に基づいたものだと言われるが、味方空母、飛行機の半数を失う覚悟で臨んだにしては、消極的ともいえる決断だった。

「当然もう一度出撃するつもりで、戦闘配食のぼた餅を食いながら心の準備をしていましたが、中止になったと聞いて、正直なところホッとしました。詰めが甘いな、とは思いましたが……」

と進藤さんは言う。

そもそも戦争にだまし討ちなどない

こうして真珠湾奇襲攻撃は成功し、米太平洋艦隊を壊滅させた機動部隊は意気揚々と引き揚げたが、隊員たちのまったくあずかり知らないところで、外交上の重大なミスが起きていたことが、やがて明らかになる。

日米交渉の打ち切りを伝える最後通牒を、攻撃開始の30分前に米政府に伝える手はずになっていたにもかかわらず、ワシントン日本大使館からの通告が遅れ、攻撃開始に間に合わなかったのだ

アメリカがこの失態を見逃すはずもなく、真珠湾攻撃は「卑怯なだまし討ち」と喧伝され、かえって米国内の世論をひとつにまとめる結果となった

最後通牒が遅れたことを、攻撃に参加した搭乗員は当時、知る由もなかったが、戦後になって聞かされた「だまし討ち」の汚名は、当事者にとって心外なものだった

進藤さんは、

「あれは『だまし討ち』ではなく『奇襲』です。最後通牒が間に合わなかったのは事実なんでしょうが、アメリカも1898年の米西戦争では宣戦布告なしに戦争をした前歴があります

アメリカは11月26日、ハル・ノート(日本軍の中国および仏領インドシナからの撤兵、中国における蒋介石政権以外の政権を認めないことなどを要求、日本側は事実上の最後通牒と受け取った)を日本に突きつけた時点で開戦を覚悟し、戦争準備をしていたはず。真珠湾の対空砲火を見れば一目瞭然ですよ。

ふつう、炸裂弾を弾薬庫から出して信管を取り付け、発射するまでには、ある程度の時間を要する。それが、第一次の雷撃隊からも損害が出るほどの早さで反撃できたんですから、砲側に置いて臨戦準備をしていたとしか考えられない。

それなのに『だまし討ち』などというのは、日本側の実力を過小評価していたため、予想以上の被害を出してしまったことに対する責任逃れの言い訳にすぎないと思います。そもそも戦争に『だまし討ち』などないんですから」

と、憤懣やるかたない、といった口調だったし、志賀さんも、

「だまし討ちと言うけどね、それまでにもう、戦争が始まらなければいけない状態になっていたんじゃないですか。少なくとも私たちが攻撃したとき、だましどころか完全な防備がしてありましたよ。でないと、あんなに素早く反撃はできません。

アメリカとしたら、『だまし討ち』ということにしないと、軍上層部の顔が立たなかったんだと思いますね。それで世論を盛り上げた。世論の国ですからね。もし最後通牒が完全に間に合っていたとしても、われわれは同じ戦果を挙げてみせたでしょう。ドックなどの港湾施設や燃料タンクを攻撃しなかったのには、いまでも悔いが残りますが」

と、「現場」としての誇りをにじませる。

アメリカと無謀な戦いを始めることに対し、それぞれに感じた疑問や不安を胸に秘め、与えられた立場で最善を尽くした結果が「だまし討ち」呼ばわりというのは、「命じられる側」の当事者として、やり切れないことであったに違いない。

後世の目でその後の戦争の推移を振り返れば、真珠湾攻撃に投入された本島さんや進藤さん、飯田大尉ら、若い隊員たちが抱いた危惧は正しかった。本島さんは、

「戦争が終わったときは、負けた悔しさよりも、なんでこんな戦争を始めたんだと、そういう気持ちが強かったですね。子供だってケンカするときは止めどきを考えてやるでしょう。それが全くなかったわけですから。それで大勢の人を死なせて……」

とも語っている。

もちろん、政府にも陸海軍にも、開戦に反対する者はいた。にもかかわらず、負けるに決まっている戦争を止めることはできなかった。戦後、何度も検証され、繰り返し語られてきた遠い昔の出来事だが、当事者がほとんどいなくなり、戦場を知らない世代が世の中を動かすようになったいまだからこそ、問い直す意味があるように思う。

文中に登場する志賀淑雄さん、真珠湾作戦に参加した小町定さんの証言を掲載。
 
文中に登場する進藤三郎さん、角田和男さんの証言を収録。