真珠湾攻撃に参加した隊員たちがこっそり明かした「本音」

決して「卑怯なだまし討ち」ではない
神立 尚紀 プロフィール

もはや引き返すことはできない

機動部隊の各母艦では、第一次の発艦後、すぐに第二次発進部隊の準備が始められた。第二次発進部隊制空隊(零戦隊)指揮官の進藤三郎さんは語る。

 

「第一次の発進を見送ったときにはさすがに興奮しましたが、いざ自分が発進する段になると気持ちも落ち着き、平常心に戻りました。出撃前、司令部から、この作戦で空母6隻のうち3隻、飛行機半数を失うとの見積もりを聞かされていて、死を覚悟しましたが、それほど悲壮な気分にもなりません。

真珠湾に向け飛行中、クルシー(無線帰投装置)のスイッチを入れたら、ホノルル放送が聞こえてきました。陽気な音楽が流れていたのが突然止まって、早口の英語でワイワイ言い出したから、よくは聞き取れませんが、これは第一次の連中やってるな、と奇襲の成功を確信しました」

第二次発進部隊制空隊指揮官として空母「赤城」をまさに発艦する進藤三郎大尉の搭乗機

オアフ島北端、白波の砕けるカフク岬を望んだところで高度を6000メートルまで上げ、敵戦闘機の出現に備える。オアフ島上空には、対空砲火の弾幕があちこちに散らばっていた。

「それを遠くから見て、敵機だと勘違いして、接敵行動を起こしそうになりました。途中で気づいて、なんだ、煙か、と苦笑いしましたが」

弾幕の煙は、遠目には1つ1つが黒い点々に見える。同じく第二次発進部隊「赤城」艦爆隊の大淵中尉(本島自柳さん)は、それらの黒点を認めて、前席の操縦員・田中義春一飛曹に「おい田中、あれは防塞気球かな」と声をかけ、「分隊士は呑気だな、あれは敵の弾幕ですよ」といわれたことで、はじめて戦闘を実感したと回想している。

第一次に遅れること約1時間、真珠湾上空に差しかかると、湾内はすでに爆煙に覆われていた。心配した敵戦闘機の姿も見えない。艦爆隊は、第一次発進部隊が撃ちもらした敵艦を狙い、本島さんは急降下爆撃で敵巡洋艦に250キロ爆弾を命中させている。零戦隊を率いる進藤さんは、各隊ごとに散開し、それぞれの目標に向かうことを命じた。

「艦攻の水平爆撃が終わるのを待って、私は『赤城』の零戦9機を率いてヒッカム飛行場に銃撃に入りました。敵の対空砲火はものすごかったですね。飛行場は黒煙に覆われていましたが、風上に数機のB-17が確認でき、それを銃撃しました。高度を下げると、きな臭いにおいが鼻をつき、あまりの煙に戦果の確認も困難なほどでした。それで、銃撃を2撃で切り上げて、いったん上昇したんですが」

銃撃を続行しようにも、煙で目標が視認できず、味方同士の空中衝突の危険も懸念された。進藤さんは、あらかじめ最終的な戦果確認を命じられていたので、高度を1000メートル以下にまで下げ、単機でふたたび真珠湾上空に戻った。

「立ちのぼる黒煙の間から、上甲板まで海中に没したり、横転して赤腹を見せている敵艦が見えますが、海が浅いので、沈没したかどうかまでは判断できないもののほうが多い。それでも、噴き上がる炎や爆煙、次々に起こる誘爆のすさまじさを見れば、完膚なきまでにやっつけたことはまちがいなさそうだと思いました。これはえらいことになってるなあ、と思いながら、胸がすくような喜びがふつふつと湧いてきましたね。

しかしそれと同時に、ここで枕を蹴飛ばしたのはいいが、目を覚ましたアメリカが、このまま黙って降参するわけがない、という思いも胸中をよぎります。これだけ派手に攻撃を仕掛けたら、もはや引き返すことはできまい。戦争は行くところまで行くだろう、そうなれば日本は……」

雷撃を受け、着底する戦艦「カリフォルニア」

被弾し、敵飛行場に突っ込んだ指揮官の胸中とは

第二次発進部隊には、飯田房太大尉が率いる空母「蒼龍」の零戦9機も参加している。そのなかの1機、藤田怡與藏さん(当時・中尉。戦後、日本航空に入り、日本人初のジャンボ機機長となる)の回想。

「蒼龍」零戦隊の藤田怡與藏中尉(のち少佐)

「真珠湾に向け航海中、われわれ搭乗員は暇なので、よくミーティングと称して、分隊長・飯田房太大尉のところに集まっては、いろんな話をしていました。

あるとき、分隊長が、『もし敵地上空で燃料タンクに被弾して、帰る燃料がなくなったら貴様たちはどうする』と問われた。みんなああでもない、こうでもないと話をしていると、分隊長は『俺なら、地上に目標を見つけて自爆する』と。それを聞いてみんなも、そうか、じゃあ俺たちもそうなったら自爆しよう、ということになりました。ごく自然な成り行きで、悲壮な感じはなかったですよ。

われわれ第二次が真珠湾の上空に着いたときには、すでに一次の連中が奇襲をかけたあとですから、敵は完全に反撃の態勢を整えていました。それはもう、ものすごい対空砲火の弾幕でした。

はじめ空中には敵戦闘機の姿が見えなかったので、カネオヘ飛行場の銃撃に入りました。目標は地上の飛行機です。飯田大尉機を先頭に、単縦陣で九機が一直線になって突入しました。3度ぐらい銃撃したところで、爆煙で地面が見えなくなったので、ホイラー飛行場に目標を変更して2撃。ここでも対空砲火は激しかった。飛んでくる弾丸の間を縫うように突っ込んでいったんですからね。

ホイラー飛行場の銃撃を終え、飯田大尉の命令により集合してみると、飯田機と二番機の厚見峻一飛曹機が、燃料タンクに被弾したらしく、サーッとガソリンの尾を曳いていました。これはやられたな、と思って飯田機に近づくと、飯田大尉は手先信号で、被弾して帰投する燃料がなくなったから自爆する、と合図して、そのままカネオヘ飛行場に突っ込んでいったんです。

私からその表情までは見えませんでしたが、迷った様子は全然ありませんでした。ミーティングで自ら言った通りに行動されたわけです。煙のなかへ消えていく飯田機を見ながら、涙が出そうになりました――」

飯田機が墜ちたのは、カネオヘ海兵隊基地の、格納庫や滑走路から約1キロ離れた、隊門にほど近い道路脇である。米側の証言記録によると、飛行場に突入してきた飯田機は、対空砲火を受け低空で火を発したが、最後の瞬間までエンジンは全開で、機銃を撃ち続けていたという。飯田大尉の遺体は機体から引き出され、米軍によって基地内に埋葬された。

墜落地点には、真珠湾攻撃30周年にあたる昭和46(1971)年、米軍が小さな記念碑を建てた。真珠湾で戦死した日本側将兵64名のうち、米側が埋葬場所を明らかにしているのは飯田大尉だけである。

ハワイ・オアフ島のカネオヘ海兵隊基地の、飯田房太大尉機墜落地点の記念碑。2001年12月、真珠湾攻撃60周年に慰霊祭が執り行われた(著者撮影)

飯田機を見送った藤田さんが、残る8機をまとめ、集合地点に向かう途中、銃撃音に振り返ると、後上方から敵戦闘機9機(米側記録では、カーチスP-36A・5機)が攻撃をかけてくるのが見えた。

「すぐに戦闘開始を下令して、空戦に入りました。私は1機に命中弾を与えましたが、最後に1機、正面からこちらに向かってくるのがいる。そこで、ちょうどいいや、こいつにぶつかってやれ、と腹を決めてまっすぐ突っ込んでいくと、敵機は衝突を避けようと急上昇した。そこへ、機銃弾を存分に撃ち込んだんです。

ところが、正面から撃ち合ったもんだから、私の零戦にもかなりの被弾があったようで、エンジンがブルンッといって止まってしまった。目の前の遮風板(前部風防)にも穴が開き、両翼は穴だらけです。これはしようがない、私も自爆しようと思ったら、また動き出した。それでなんとか帰ってみようと、途中ポコン、ポコンと息をつくエンジンをだましだまし、やっとの思いで母艦にたどり着きました。

油圧計はゼロを指していて、焼きつく寸前です。着艦すると、その衝撃でエンジンの気筒が一本、ボロンと取れて飛行甲板に落ち、同時にエンジンが完全に止まってしまいました」

戦死した飯田大尉は山口県出身の28歳、兵学校時代、「お嬢さん」というニックネームで呼ばれていたという。気性の荒い者が多い戦闘機乗りにはめずらしく、気品を感じさせるほど温和で寡黙な士官であった。

「飯田機は、帰艦できないほどの被弾ではなかったと思う。行きは増槽(落下式燃料タンク)を使い、戦闘のときにそれを落として機内の燃料タンクを使うわけですが、やられたのは片翼のタンクだけで、胴体ともう片翼の燃料は残ってますから。冷静に計算したら燃料はあるわけですよ。もしかしたら還れたかもしれないのに、惜しいことでした。いま思えば、航海中のミーティングのときから、心中に期するものがあったのかもしれません」

と、藤田さんは言う。

飯田大尉がかつて、

「こんな馬鹿な戦争を続けていたら、いまに大変なことになる」

と周囲に漏らしていたことは、先に述べた。

それをじかに聞いた角田和男さんは、開戦時一等飛行兵曹で、茨城県の筑波海軍航空隊で操縦教員を務めていたが、真珠湾攻撃から帰還した「蒼龍」の搭乗員から聞いた話として、次のように語っている。

「飯田大尉は攻撃の前日、部下の搭乗員を集め、『この戦は、どのように計算してみても万に一つの勝算もない。私は生きて祖国の滅亡を見るに忍びない。私は明日の栄えある開戦の日に自爆するが、皆はなるべく長く生きて、国の行方を見守ってもらいたい』と訓示をしたと言うんです。

飯田大尉はその言葉の通り、自爆されましたが、このことはその日のうちに艦内の全員に緘口令が敷かれたと。私は、飯田大尉の人となりから、その話を信じています」

これは、驚くべき証言である。飯田大尉は、はじめから自爆する決意でいたのか――。

このことを藤田さんに質してみると、

いや、私はそんな訓示を受けた覚えはないですな。開戦初日に戦死する覚悟というのは、私もそうだったし、みんなそうだったんじゃないですか

と、否定的だった。

飯田大尉が敵飛行場に向け自爆するとき、その胸中を去来するものが何であったか、出撃前日の訓示もあわせて、いまとなっては確かめようがない。